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綻びを繕う者 ~三十五歳の設備保全員、異世界で唯一の修繕師になる~  作者: のむ


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第十三章 東の鍵——嘆きの海岸

東の嘆きの海岸までの道のりは、二週間を要した。

 密林を後にした四人は、大陸の南部を横断して東へ向かった。道中の街道沿いの町で三か所の小規模な綻びを修繕し、柏木のレベルは十一に到達した。

 旅の途中、興味深い出来事があった。

 ある町で、柏木が綻びを修繕しているのを見物していた少年が、修繕が終わった後に柏木のもとに駆けてきた。

 「おじさん、すごい! 俺も修繕師になれる?」

 十歳くらいの少年だ。目がきらきら輝いている。

 「俺のクラスは特殊だからな。同じようにはなれないかもしれない。でも——壊れたものを直す仕事は、いくらでもある。大工とか、鍛冶師とか」

 「でも、おじさんみたいに光出せないじゃん」

 「光が出なくても、直せるよ。大事なのは光じゃなくて、壊れたものの声を聞くことだ。壊れた場所がどこで、どうすれば治るかを考える。それが修繕の本質だから」

 少年はよくわかっていない顔で頷いたが、その目には何かが灯っていた。小さな種だ。いつか芽が出るかもしれない。

 セリアが小声で言った。

 「柏木さんは教育者としても才能がありますね」

 「やめてくれ。子供に話しかけられただけだ」


 大陸の東端に位置する嘆きの海岸に到着したのは、密林を出てから十四日後のことだった。

 その名に違わず、寂寥とした場所だった。

 百メートルを超える断崖が、南北に連なっている。崖の下は暗い海で、灰色の波が絶え間なく岩壁に打ちつけている。風が強く、崖の上に立つと身体が持っていかれそうになる。

 そして——波の音が、本当に泣き声のように聞こえた。

 「なぜ、嘆きの海岸と呼ばれるかわかりますか」

 セリアが風に髪を乱しながら言った。

 「千年前、この海岸沿いにポルティア共和国という海洋都市国家がありました。先史文明の技術を受け継いだ、美しい白い都市だったと言われています。しかし、千年前の大津波で都市は海に沈み、数万の住民が命を落としました。以来、この海岸には嘆きの声が絶えない——という伝説です」

 「伝説か」

 「ただの伝説ではないかもしれません。海底に沈んだ都市の遺構は実在すると、複数の文献が記しています。そして東の鍵は、その都市の中枢——海底の神殿に安置されている」

 月明かりに照らされた波間に、時折紫色の光がちらついていた。海の中にも綻びがあるのだ。

 「海底遺跡への入口は、あの岩礁の向こう側にあるはずです」

 セリアが海図を広げて説明した。崖の下、岩礁が海中に沈み込む場所に、遺跡の入口があるという。

 「問題は、水深五十メートルの海底まで潜る必要があること。水中呼吸の魔法は私が全員にかけますが、効果時間は二時間です。その間に遺跡を探索し、鍵を手に入れて浮上しなければなりません」

 「二時間か。タイトだな」

 マルクスが唸った。

 「海の中は俺の領分じゃない。動きも遅くなる」

 「私も、水の中では剣が——」

 リーナも不安そうだった。水の抵抗で、剣術の威力は陸上の半分以下になるだろう。

 柏木は海を見つめながら考えた。

 「全員で潜ろう。俺の修繕術は水中でも使えるはずだ。セリアの魔法支援と、リーナの近接戦闘。マルクスは遺跡の入口で退路を確保してくれ。崩落があっても帰り道を守ってほしい」

 「了解だ。退路の確保は任せろ。海の中の崩落は、地上の落盤より始末が悪い。入口を維持するのは重要な役割だ」


 その夜、崖の上で野営しながら、柏木はリーナと二人で火を囲んでいた。セリアとマルクスは先に休んでいる。

 「リョウイチさん」

 リーナが火を見つめながら言った。

 「父は——冒険者として、いろいろな場所に行ったそうです。海にも行ったことがあると聞きました」

 「アルベルトさんか」

 「はい。ブランデルに落ち着く前は、各地を旅していたらしいんです。若い頃は王都で冒険者をしていて、そこで母と出会って、私が生まれて、それからブランデルに移った」

 「なぜブランデルに?」

 「わかりません。父は多くを語りませんでした。でも——一度だけ、こう言っていたのを覚えています。『小さな町で、小さな暮らしを守る。それが、俺にとっての冒険だ』って」

 柏木はその言葉を、しばらく噛みしめた。

 「いい言葉だな。お父さんは、賢い人だったんだな」

 「はい。——リョウイチさんも、似ています。世界を救えるほどの力を持っているのに、ブランデルに帰りたいと言う。小さな町で、壊れた鍋を直す仕事がしたいと言う」

 「鍋を直すのは大事な仕事だぞ。鍋がなきゃシチューが作れない。シチューがなきゃ、赤猪亭が潰れる。赤猪亭が潰れたら、トーマスさんが飲む場所がなくなる」

 リーナは吹き出した。

 「そういう理屈、好きです」

 波の音が、崖の下から絶え間なく聞こえていた。嘆きの声——千年前に海に沈んだ都市の住人たちの声だという伝説。

 「明日、その人たちの街を見に行くんだな」

 柏木はそう呟いて、火に薪をくべた。


 翌朝、四人は崖を降りて海岸に出た。岩礁の間を縫って移動し、セリアが示した地点に到達した。

 「ここです。この岩の下に、遺跡の入口があるはず」

 セリアが全員に水中呼吸の魔法をかけた。鼻と口の周りに薄い空気の膜が形成され、水の中でも呼吸ができるようになる。さらに、水圧に対する防護魔法と、体温を維持する魔法も追加した。

 「準備万端だな」

 マルクスが水中でも動きやすいよう、重い鎧を脱いで革鎧だけの軽装になっていた。腰の大剣は背中に回している。

 「では、潜ります。時間は二時間。それを過ぎると魔法が切れますので、必ずその前に浮上してください」

 四人は海に入った。

 最初の衝撃は冷たさだった。防護魔法のおかげで致命的ではないが、身体の芯まで冷える。水は暗い青緑色で、視界は十メートルほど。セリアが光球の魔法を発動し、周囲を照らした。

 岩礁を沿うように深く潜っていくと、二十メートルほどの深さで、人工的な構造物が見え始めた。海藻と珊瑚に覆われているが、明らかに人の手で加工された石材だ。

 さらに深く。三十メートル。四十メートル。

 やがて、海底遺跡の入口が見えた。

 珊瑚と海藻に半ば埋もれた石造りのアーチ。先史文明の魔法文字が刻まれており、柏木の【鑑定眼】が翻訳した。

 「『海の守護者の館。東の鍵、ここに眠る』——間違いない」

 アーチの向こうは、広い通路になっていた。天井は五メートルほどの高さで、壁面には精緻な浮き彫りが施されている。波と魚と船の意匠——海の民の文化だ。千年の時が経っても、その美しさは失われていなかった。

 「俺はここで退路を守る」

 マルクスがアーチの柱に手をかけて言った。天井の石材がいくつか危うく傾いている。この入口が崩れたら、全員の帰り道が塞がる。

 「頼む、マルクス」

 「安心しろ。崩れかけたら、この大剣でつっかえ棒にしてでも支える」

 柏木、リーナ、セリアの三人は通路の奥へ進んだ。

 通路の所々に、崩落した箇所があった。天井の石材が落ち、瓦礫が通路を塞いでいる。

 柏木は瓦礫に手を当て、【修繕術】を発動した。

 水中での修繕は、陸上とは感覚が違った。魔力の伝導が水の抵抗で鈍くなり、修繕の精度が落ちる。水に全身を包まれている分、意識が散漫になりやすい。

 しかし柏木は集中力を研ぎ澄ませた。崩落した石材が元の位置に戻り、通路が蘇る。千年前の通路が、柏木の手で再び通行可能になった。

 「すごい……。まるで時間が巻き戻っているようです」

 セリアが目を見張った。

 通路を進むにつれ、遺跡の規模が見えてきた。ここは単なる神殿ではなかった。海底に沈んだ都市そのものの一部だ。通路の左右に、かつての住居や店舗だったと思しき部屋が並んでいる。家具はとうに朽ち果てているが、壁の構造は残っていた。

 そして、通路の突き当たりに巨大な広間が現れた。

 天井高は十メートル以上。かつてはドーム状の天井だったのだろうが、今は一部が崩れ、海水が直接流入している。広間の中央に、青い光を放つ祭壇がある。

 祭壇の前に——守護者がいた。

 最初は岩かと思った。祭壇に巻きついている灰色の塊が、突然動き出したのだ。

 巨大な海蛇。体長十五メートルを超える蒼銀の鱗を持つ蛇が、ゆっくりと頭をもたげた。頭部には一本の角があり、知性を感じさせる金色の目が、セリアの光球の中に浮かんだ四つの影を見据えた。

 「鍵を求める者か」

 海蛇の声は、水中に波紋のように広がった。言葉を発しているというより、意思が直接伝わってくる感覚だ。

 「二千年の眠りを、よくぞ起こしてくれた」

 「南の鍵は既に手に入れた。東の鍵も、いただきたい」

 柏木は正面から海蛇を見据えて言った。水中で声を出しているのに、水中呼吸の魔法のおかげで明瞭に聞こえる。

 「鍵は与える。だが、ただではない。試練を果たせ」

 海蛇が身体をうねらせ、祭壇の後方を示した。

 「この広間の奥に、かつてポルティア共和国の中心街があった。白い石で造られた美しい都市だった。千年前の大津波で海に沈み、住民は逃れたが、都市は海底に取り残された。その遺構を修繕し、かつての姿の片鱗でも取り戻してみせよ。お前の修繕の力を見せよ」

 柏木は広間の奥に進んだ。

 そこには——海底に沈んだ都市の遺構が広がっていた。

 かつては壮麗だったであろう石造りの建物群。しかし千年の海水に侵食され、見る影もなかった。壁は崩れ、柱は倒れ、広場の噴水は珊瑚の塊と化している。通りは砂に埋もれ、かつての賑わいを想像することすら難しい。

 柏木は水中で修繕術を発動した。

 陸上とは勝手が違う。水の抵抗が魔力の伝導を妨げ、修繕の効率が大幅に落ちる。さらに、海水による侵食は瘴気とは異なる種類の損傷で、対処法を手探りで見つける必要があった。

 塩分が石材の結晶構造の隙間に入り込み、内部から石を脆くしている。これを除去しながら石材を修復するのは、瘴気の浄化とはまた違った技術が要る。

 柏木は【構造理解】で石材の元の形を把握し、海水の侵食パターンを分析した。

 ——千年かけて壊れたものを、数分で直すのは無理がある。でも、「こうだったはず」という形はわかる。石の記憶が、まだ残っている。

 一棟目の建物に取りかかった。

 両手を崩れた壁に当て、修繕術を発動。金色の光が水中で揺らめきながら石材に浸透していく。塩分の侵食を除去し、崩れた構造を元の位置に戻す。壁が立ち上がり、窓の形が蘇り、屋根の曲線が再現された。

 一棟目が蘇った。白い石壁が、セリアの光球に照らされて海底で輝いた。千年の眠りから覚めた建物は、新品ではなかったが、確かに「かつてここに人が住んでいた」ことを雄弁に語っていた。

 二棟目。三棟目。修繕の速度が上がっていく。水中での魔力伝導の感覚を掴み始めたのだ。

 水の中の修繕には、陸上にはないコツがあった。水自体を媒介にして魔力を伝えるのだ。水は石材のあらゆる隙間に入り込んでいる。その水に魔力を乗せれば、石材の内部まで修繕の力が届く。

 むしろ水中の方が効率がいいかもしれない——そう気づいた瞬間、修繕の速度がさらに上がった。

 広場の噴水に手を当てた。珊瑚に覆われた石造りの噴水が、光に包まれて変容していく。珊瑚が剥がれ、本来の白い石が現れ、装飾的な彫刻が蘇った。人魚と海馬の彫像が、噴水の縁を飾っている。

 修繕が完了すると——噴水の機構が動き出した。海水の中で、気泡が勢いよく湧き上がった。千年ぶりに目覚めた噴水が、海底で息を吹き返したのだ。

 リーナが歓声を上げた——水中なので、泡になって消えたが、その目は輝いていた。

 柏木はさらに修繕を続けた。通りの石畳を蘇らせ、灯台の塔を再建し、港の桟橋を修復した。

 時間との戦いでもあった。水中呼吸の魔法の残り時間が刻々と減っていく。

 しかし柏木は、自分の魔力が許す限り修繕を続けた。全てを直すことはできなかったが、都市の中心部——広場とその周辺の建物群は、かつての姿の面影を取り戻していた。

 海底に沈んだ白い都市が、セリアの光球に照らされて幻想的に輝いている。波に揺れる海藻が、建物の窓から顔を出している。魚が、修繕された通りを泳いでいく。破壊と再生が共存する、不思議な美しさだった。

 柏木はふと、この都市にかつて住んでいた人々のことを思った。

 千年前。ここで暮らし、笑い、泣き、日々の営みを重ねていた人々。津波に飲まれ、彼らの都市は海に沈んだ。しかし、石の記憶の中に、その暮らしの痕跡は残っていた。修繕を通じて、柏木はそれを感じ取っていた。

 台所の煤けた壁。子供の落書きが残る部屋の石壁。港の桟橋にすり減った船の係留跡。——人々の暮らしの記憶が、千年の後も石の中に眠っていた。

 「修繕は、記憶を蘇らせる行為でもある」

 柏木は水中で、そう実感した。

 海蛇は満足げに目を細めた。

 「見事だ。水の中での修繕は困難であったろう。しかし、お前は諦めなかった。そして——ただ建物を直しただけではない。この都市に眠る記憶を、蘇らせた。それは、石の記録よりも尊い」

 海蛇は祭壇から、青い結晶を取り出した。深い海の色を凝縮したような蒼碧の結晶。

 「東の鍵を託す。この鍵は、海の記憶から生まれた結晶だ。失われたものを蘇らせる力が込められている」

 柏木が結晶を受け取った瞬間——海蛇がもう一つ、言葉を残した。

 「修繕師よ。一つ伝えておく。この都市が沈んだ千年前の大津波——あれは自然災害ではなかった」

 「え?」

 「虚無の王が封印の中から放った力の余波だ。千年前にも、虚無の王は封印を破ろうとした。その時の衝撃が津波となり、この都市を飲み込んだ。封印は辛うじて持ちこたえたが、代償は大きかった」

 柏木は息を呑んだ。虚無の王は三十年前に初めて封印を破り始めたのではない。千年前から、何度も試みていたのだ。

 「封印は、長い時間をかけて蝕まれてきた。お前が修繕しなければ、いつか必ず破られる。——急げ、修繕師」

 海蛇の身体が光に包まれ、青い粒子となって海中に散っていった。


 浮上したときには、セリアの水中呼吸の魔法の残り時間は十分を切っていた。

 崖の上に這い上がり、火を焚いて身体を乾かしながら、全員が安堵の息を吐いた。

 「もう少し遅かったら危なかった」

 マルクスが濡れた髪を手で掻き上げながら言った。入口で退路を守り通したマルクスの革鎧は、海水を吸って倍の重さになっている。柏木は乾く前に修繕で塩を抜いてやった。

 「でも、成功しました」リーナが両手を握りしめた。「二つ目の鍵です」

 柏木は二つの結晶——翡翠と蒼碧を手の中で並べた。それぞれが異なる光を放ち、微かに共鳴している。

 「残り二つ。西と北」

 「半分です」セリアが言った。

 「もう半分だ」柏木が訂正した。工場にいた頃の口癖だった。進んだ分を数えろ。残りを数えるな。

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