第九章 遠征の旅路
ブランデルの綻びを修繕した報告は、王都に速達で届けられた。
三日後、アリシア王女から返信が届いた。正式に「綻び対策特別遠征隊」が設立され、柏木が隊長に任命されたという内容だった。
「隊長って……俺が?」
「当然でしょう。修繕できるのはあなただけなんですから」
セリアが事もなげに言った。
「ただ、実際の遠征計画の立案と指揮は私とマルクスが担当します。柏木さんは修繕に専念してください」
アリシアからの書状には、最初の遠征先として三か所の綻びが指定されていた。
一つ目は、ブランデルから東に二日のケルン村。農村地帯の中に小規模な綻びが発生し、農地が瘴気に侵されている。
二つ目は、王都の南方にあるラインフェルト伯爵領。中規模の綻びがあり、領民の避難が始まっている。
三つ目は、大陸中央の廃鉱山。かなり大きな綻びで、鉱山が放棄される原因になった。
「難易度の低い順に並んでいます。一つずつクリアしながら、柏木さんのレベルを上げていく計画ですね」
セリアが分析した。
「合理的だ。では、出発しよう」
出発の朝、四人は赤猪亭の前に集まった。ブランデルの住人たちが見送りに来てくれていた。
「気をつけてな、柏木」
トーマスが柏木の肩を叩いた。もう何度目かわからない、この大きな手。
「ああ。行ってくる」
「帰ってこい。お前の帰る場所は、ここだ」
その言葉が、柏木の胸に深く沁みた。帰る場所。前の世界では、もうどこにもなかった言葉だ。
ガルドは鍛冶場の前に立って、腕を組んでいた。見送りの言葉はなかった。ただ、柏木が通りかかったとき、ぶっきらぼうに言った。
「鍛冶場の二階は空けてある」
それが、ガルドなりの「帰ってこい」だった。
ケルン村への道は、穏やかだった。
初夏の日差しの中、四人は馬車と徒歩を交互に使いながら東へ進んだ。道中の風景は牧歌的で、緑の丘陵地帯に畑や牧草地が広がっている。
「リョウイチさん、異世界に来る前はどんな生活をしていたんですか?」
リーナが歩きながら訊いた。
「工場で機械を直す仕事をしてた。毎朝同じ時間に起きて、同じ道を通って工場に行って、壊れた機械を直して、夜遅くに帰る。その繰り返しだ」
「それは……楽しかったですか?」
「楽しかったよ。機械が直って、ちゃんと動くようになる瞬間が好きだった。ただ——」
柏木は少し黙った。
「ただ、それ以外のことを全部おろそかにしてた。仕事ばっかりで、大事な人を失った」
「大事な人?」
「妻がいたんだ。離婚した。俺が仕事ばかりで、ちゃんと向き合わなかったから」
リーナは少し考えてから言った。
「でも、今のリョウイチさんは違うと思います。ちゃんと周りの人を見てます。私のことも、セリアさんのことも、町の人たちのことも」
「そうか?」
「はい。私の剣を直してくれたとき、剣だけじゃなくて、私の気持ちも直してくれた気がしました」
柏木は照れくさくなって、前を向いた。
後ろでセリアが小さく微笑んだのを、柏木は気づかなかった。
ケルン村は、小さな農村だった。
五十軒ほどの家が小川沿いに並び、周囲は麦畑と果樹園に囲まれている。村の北端に、小規模な綻びが発生していた。長さは二メートルほど。ブランデルの綻びよりもずっと小さい。
しかし、その影響は深刻だった。綻びの周囲二百メートルほどの農地が瘴気に侵され、作物が枯れている。村の農地の三分の一が使えなくなっていた。
「去年までは何とかなっていたんだが、今年に入って綻びが少し大きくなってな。瘴気の範囲も広がった」
村長の老人が、疲れた顔で説明した。
「このままじゃ、来年には村を捨てなきゃならん」
「直します。明日の朝、修繕を行います」
柏木の言葉に、村長は半信半疑の表情を浮かべた。無理もない。綻びが直るなんて、誰も信じていなかったのだから。
翌朝、柏木は綻びの前に立った。
ブランデルのときと同じ手順。セリアの封印魔法で綻びを安定させ、リーナとマルクスが周囲を警戒する中、柏木が修繕を行う。
今回は小規模な綻びということもあり、修繕は三十分ほどで完了した。ブランデルの時ほどの消耗はない。レベルが上がった分、余裕を持って作業できた。
綻びが消えた瞬間、村人たちが歓声を上げた。何人かは泣いていた。
「ありがとう……ありがとう、修繕師さん」
村長が柏木の手を握り、涙を流した。
さらに、柏木は【瘴気浄化】と【領域修繕】を組み合わせ、瘴気に侵された農地の浄化も行った。枯れた土壌が蘇り、灰色だった大地に茶色の土の色が戻ってくる。
「これで、来年の作付けには間に合うはずです」
村人たちの喜びようは、言葉では表しきれなかった。
その夜、村では柏木たちを歓待する宴が開かれた。自家製のパンとチーズ、果物の酒、素朴だが心のこもった料理が並んだ。
「柏木さん」
セリアが柏木の隣に座った。
「今回の修繕のデータ、興味深い結果が出ています。小規模な綻びの修繕では、大規模なものよりも魔力効率が良い。つまり、小さな綻びをたくさん直す方が、レベル上昇の効率が高い可能性があります」
「なるほど。数をこなす方がいいと」
「はい。アリシア王女に報告して、遠征計画を修正してもらいましょう。大規模な綻びに挑む前に、近隣の小規模なものを可能な限り修繕する方が効果的です」
セリアの分析は的確だった。研究者としての冷静な視点が、遠征計画を最適化していく。
ケルン村を発ち、一行は次の目的地であるラインフェルト伯爵領に向かった。
道中、街道沿いの小さな町で綻びの情報を得て、計画外の修繕を二件行った。どちらも小規模なもので、比較的容易に修繕できた。
修繕のたびに柏木の経験値は蓄積され、レベルは九に到達した。新しいスキルも獲得した。
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レベル9
新スキル獲得:
【魔力共鳴】Lv.1
仲間の魔力と共鳴し、修繕の効率を向上させる
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【魔力共鳴】は、パーティメンバーの魔力を借りて修繕の威力を高めるスキルだった。セリアの魔力と共鳴させることで、柏木単独では不可能な大規模修繕も可能になるかもしれない。
「これは大きな発見です」
セリアが目を輝かせた。
「修繕術が個人の能力の限界を超えられることを意味します。将来的には、複数の魔法使いの魔力を結集して大規模な修繕を行うことも——」
「先の話だ。まずは目の前の綻びを直そう」
ラインフェルト伯爵領に到着したのは、ケルン村を出て四日後のことだった。
この領地は、王都の南方に広がる穀倉地帯にある。肥沃な土地と温暖な気候に恵まれ、かつては王国有数の穀物生産地だった。しかし五年前に大きな綻びが発生し、領地の南半分が瘴気に覆われて以来、状況は一変していた。
「修繕師殿をお待ちしておりました」
出迎えたのは、ラインフェルト伯爵本人だった。五十代の痩せた男で、目の下にはくっきりとした隈がある。眠れない日が続いているのだろう。
「領民の半数が避難を余儀なくされています。残った者も、いつ瘴気に飲まれるかと怯える毎日です。どうか——どうか、お力をお貸しください」
その言葉に政治的な計算は感じられなかった。純粋に、領民のことを心配している領主の姿だった。
綻びは、領地の南端にある丘の上にあった。長さ十メートルを超える、大きな亀裂。ブランデルのものよりも二倍近い規模だ。
【鑑定眼】で確認する。
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対象:空間の綻び(中規模・上位)
損傷度:88%
状態:緩やかに拡大中
修繕難易度:修繕術 Lv.8以上
現在の修繕術レベル:Lv.8
修繕可能:はい(ただし大量の魔力を消費)
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ギリギリのラインだ。修繕は可能だが、魔力の消費が凄まじいことになるだろう。
「セリア、今回は【魔力共鳴】を使う。お前の魔力を借りたい」
「もちろんです。どのくらい必要ですか?」
「わからない。やってみないと。ただ、お前に負担がかかりすぎないように気をつける」
「私のことは心配いりません。全力でサポートします」
翌朝、修繕を開始した。
セリアの封印魔法。リーナとマルクスの警戒配置。そして、柏木とセリアの魔力共鳴。
柏木がセリアの手を握ると、二人の魔力が共鳴し始めた。セリアの魔力は柏木のものとは質が異なるが、【魔力共鳴】のスキルがそれを調和させ、一つの流れにまとめ上げた。
「すごい……。あなたの魔力に触れると、構造が見えます。空間の構造が——」
セリアが驚きの声を上げた。魔力共鳴を通じて、セリアにも柏木の【構造理解】の感覚が伝わっているのだ。
柏木は片手をセリアと繋いだまま、もう片方の手を綻びに当てた。
金色の光が、前回以上の強さで放たれた。セリアの魔力が加わったことで、修繕の威力が倍増している。
十メートルの亀裂が、目に見える速度で縮小していく。
しかし、途中で異変が起きた。
綻びの内部から、強い抵抗を感じた。まるで、修繕されることを拒んでいるかのような——いや、何かが綻びを「開いたまま」にしようとしている。
「何かが——向こう側から、抵抗している」
柏木の声に、セリアが反応した。
「綻びの向こうに、意思を持った存在がいる可能性は以前から議論されていました。もし、綻びが自然現象ではなく、誰かが意図的に開いているのだとしたら——」
抵抗は強かった。しかし、柏木は引き下がらなかった。
修繕術の出力を上げる。セリアの魔力をさらに引き出す。金色の光と、セリアの青い魔力が渦を巻き、綻びを包み込む。
抵抗が揺らいだ。
柏木は一気に修繕を完了させた。
亀裂が縮小し、消滅する——その最後の瞬間、綻びの向こうから、何かの声が聞こえた。
——お前は何者だ。
低い、震えるような声。言葉というよりは、意思の塊のようなものが、柏木の脳に直接流れ込んできた。
——我が道を塞ぐか、修繕師。
柏木は息を呑んだ。間違いない。綻びの向こうに、知性を持った何かがいる。そしてそれは、綻びを——世界を引き裂くことを、意図的に行っている。
——無駄だ。一つ塞いでも、百を開く。お前の力では、我を止められない。
声は綻びの消滅とともに途絶えた。
柏木は地面に座り込んだ。魔力の消耗に加え、今の「接触」が精神にも大きな負担をかけていた。
声の余韻が、頭の中でまだ響いている。冷たく、巨大で、底知れない意志。二千年間封印の中で力を蓄えてきた存在の、圧倒的な存在感。
柏木は自分の手を見た。震えている。恐怖だけではない。あの声に触れた瞬間、自分の存在がいかに小さいかを思い知らされた。世界を壊そうとする力と、世界を直そうとする力。その規模の差は、歴然としていた。
しかし——柏木は拳を握りしめた。
機械の修理だって同じだった。巨大な旋盤が故障した時、その数トンの鉄の塊の前で、柏木は何度も途方に暮れた。しかし、匙を投げたことはない。どんなに大きな機械も、壊れている箇所は一か所一か所だ。一つずつ直せば、いつか全体が直る。
虚無の王が百の綻びを開くなら、百一直せばいい。
単純な計算だ。
「リョウイチさん! 大丈夫ですか!」
リーナが駆け寄ってきた。
「……ああ。綻びは直した。だが——」
柏木はセリアを見た。
「綻びの向こうに、何かがいた。俺に話しかけてきた」
セリアの顔から血の気が引いた。
「話しかけてきた……? 内容は?」
「『一つ塞いでも、百を開く。お前の力では止められない』と」
沈黙が落ちた。
マルクスが腕を組んで言った。
「つまり、綻びは自然現象じゃなく、誰かが意図的に開けているということか」
「その可能性が極めて高い」セリアが硬い声で答えた。「そして、その存在は柏木さんの修繕を脅威と認識している。でなければ、わざわざ警告などしない」
「脅威と思ってるなら、好都合だ」
マルクスは不敵に笑った。
「効いてるってことだからな」
柏木は黙って空を見上げた。綻びがあった場所には、もう何もない。青い空と白い雲だけだ。
だが、綻びの向こうにいた存在の声が、頭の中にこびりついて離れなかった。




