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第78話

 頭が真っ白になったまま、美絵に連絡を返せなかった翌朝。


 目を覚ますと、身体は鉛のように重く、頭痛もした。

 時計の秒針の音が、妙に部屋に響き渡っている。


 今日は二限から授業がある。


(……このままサボってしまおうか)


 そんな考えが一瞬頭をよぎる。


 根が真面目な自分の性格にうんざりしながらも結局、のろのろと支度をして家を出た。


 ◇


 講義室の席に座り、ただ虚空を見つめていると、後ろから「オーッス!」と声をかけられる。


 今の僕のどす黒い感情とは正反対の、やけに底抜けに明るい声。

 正人だ。


「……おー」


 力なく返す。


 正人は隣の席にドカッと座り、「いやー、遅刻するかと思って乗り換え死ぬ気でダッシュしたらギリ成功したぜ」などと、なんでもない話をペラペラと喋り始めた。


「…………」


 相槌を打つこともできず黙っている僕の顔をチラッと覗き込み、正人は眉を寄せた。


「……なんか、この前よりさらに顔死んでね?」


「…………」


 反論する気力すら起きない。

 適当に誤魔化すことさえできないまま、やがて授業が始まった。


 ◇


 ――キーンコーン、カーンコーン。


 チャイムが鳴り、二限の終わりを告げた。


 重い溜息をつきながら鞄に荷物を詰め、立ち上がろうとした瞬間。

 横からガシッと腕を掴まれた。


「……なんだよ?」


 驚いて顔をしかめると、正人はニカッと笑った。


「お前、三限ある?」

「……ないけど」

「四限は?」

「ある」

「よしっ。じゃあ、四限までデートしようぜ!」


「……はあ?」


 突然の、意味のわからない誘いに、思わず間の抜けた声が出た。


 ◇


「……なんでだよ」


 小さくツッコミを入れる。

 連れてこられたのは、大学の近くにあるカラオケボックスの薄暗い部屋だった。


「たまには歌いながらランチしよーぜー」


 正人はメニュー表をパラパラと眺めながら、器用に備え付けの電話を肩と頬で挟んでいる。


「あ、すいません。唐揚げとポテトと、あとコーラふたつ……」


 僕の声になど聞く耳を持たず、注文を終わらせてしまった。


 料理が届く前から、正人はタブレットを操作して、好き勝手に自分の歌いたい曲を入れ始めた。

 マイクを握って熱唱する合間に、「おい、祥太郎も早く入れろよー」と急かしてくる。


「え……」


 急に言われても戸惑う。

 カラオケ自体あまり来ないし、上京してからは一度も来ていない気がする。

 最後に何を歌ったかも思い出せない。


 そうこうしているうちに、次の曲のイントロが流れ始めた。


(……懐かしい)


 中学生の時に流行っていて、よく聴いていた曲だ。

 好きな女の子への届かない想いを、明るいアップテンポのメロディに乗せて歌っている。


『彼女の笑顔が 僕に向けられたらいいのに』


 そのフレーズは正直、当時の僕の心に刺さりまくっていた。


 そしてこの前、家に美絵が遊びに来て、一緒に歌番組を観ていた時。

 この曲が流れて、彼女が小さく口ずさみながら、「懐かしいね」と微笑みかけてくれた。


 あの陽だまりのような笑顔が、鮮明に脳裏に蘇る。


 ――『祥ちゃん』


 あの顔はもう、僕には向けられないんだろうか。

 他の誰かのものになるんだろうか。


 そう思った瞬間、視界が滲み、一筋の涙が頬を伝ってしまった。



「いやー、やっぱいい曲だよなー」


 曲が終わり、満足げに振り返った正人が僕を見て、ピタリと動きを止めた。


「え!? お前、何泣いてんの!?」


「…………」


「マサちゃんの熱唱に感動した!?」


「…………」


 正人自身の『マサちゃん』呼びにもツッコめない。


 何も答えずに俯いていると、正人の声のトーンが少しだけ真面目なものに変わった。


「……もしかして、ヨッシーとのこと?」


 男同士で恋愛相談なんてするもんじゃない、とずっと考えていた。

 ましてや、涙を見せるなんて……。


 でも、一人で抱え込むには、今の状況はあまりにも苦しすぎた。


 正人の問いかけに、気づけば口を開いていた。


「……『いろいろと考えたい』って言われて、少し距離を置いてた。それで……会って話したいって言われたけど……振られそうだから、会いたくない。別れたくない」


 堰を切ったように、自分の情けない本音をすべて吐き出した。


 それを黙って聞いていた正人は、数秒の沈黙の後――。



「……プッ、ハハハッ!」



 堪えきれなかったように吹き出した。


「……何がおかしいんだよ」


 軽く睨むものの、「あ、ごめんごめん!」と、ちっとも悪びれない様子だ。


「いや、こんな駄々っ子みたいな祥太郎、初めて見たなと思って。いつも落ち着いた大人ぶってるけどさ……お前も普通の男子だったんだな!」


「……当たり前だろ? こっちは中学の時からずっと好きだったんだぞ!?」


 ヤケになって強めに言い返すと、正人はさらに肩を揺らした。



 ひとしきり笑ったあと、コーラを一口啜ってから宙を眺めた。


「『振られそう』ねえ。外野から見てても、ヨッシーも祥太郎のこと、めちゃくちゃ大好きに見えるけどな?」


「……状況は変わるんだよ」


 自分で言っておきながら、ズキリと胸が痛む。


「えー?」


 腑に落ちない様子の正人。


「……他の男が出てきたりとか、俺とのこと考えて苦しそうだったりとか……」


 そう言って再び黙り込むと、正人は腕を組んで天井を仰いだ。


「んー、わかんないけど。祥太郎のことが好きだから、悩んで苦しいんじゃないの? 気持ちが冷める時の相手ってさ、もっとこう……自分に興味なさそうになるもんかなーって」


 自分の過去のことを何か思い出したのか、苦笑いしている。


「とりあえず、ヨッシーとはちゃんと向き合えよ。振られるとは思わないけどさ……もし万が一振られたら、失恋ソング、一緒に朝まで歌って慰めてやるよ!」


 正人はタブレットを操作しながら、「よし、練習しとこ」と呟いて、ド定番の失恋ソングを大量に予約し始めた。


「……縁起わりーな」


 僕は呆れてため息をつきながらも、マイクを握った。



 結局、四限が始まる直前まで、二人とも喉がガラガラになりながらも大声で失恋ソングを歌い続けた。


 美絵と距離を置いてからずっと張り詰めていた肩の力が、その時初めて、少しだけ抜けたのだった。

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