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第77話

 祥ちゃんに会う約束の日の朝。

 手持ちの服の中で一番誠実そうに見えて、気持ちがシャキッとする、きちんとしたワンピースを着て家を出た。


 五月に入り、日中は暑いと感じる日も増えてきたけれど、朝はまだ爽やかで心地よい空気に満ちている。


(ようやく会える……)


 今の気持ちをしっかり伝えようと、心の中で何度も言葉を反芻していた。


 私が勝手に不安になってしまったのは、自分の将来が見えていない焦りがあったことや、祥ちゃんのことが大好きすぎて臆病になっていたせいだ。

 祥ちゃんは、何ひとつ悪くない。

 気持ちを伝えることが怖かったけど、これからは逃げずにきちんと言葉にする。


 会えない日々が、こんなにも辛かった。

 だから、もう二度と距離を置いたりしたくない。


 そして――ずっと、ずっと一緒にいたいということ。


 ◇


 一限の講義を終えて教室を出た時、鞄の中でスマホが震えた。


(…………!)


 取り出して画面を見ると、思いがけない人の名前が表示されていて、思わず息を呑む。

 戸惑いながらしばらく見つめ、通話ボタンをタップして耳に当てた。


「……はい」


『……あー、もしもし?』


 電話の向こうから聞こえてきたのは、少し気怠そうな低い声。


 この声を聞くのは五年ぶりだ。

 そもそも、彼と電話で話すのなんて、これが初めてかもしれない。


 声の主は――修平くんだった。


崎本さきもとさんと連絡とれたりする?』


 崎本というのは、千尋さんの苗字だ。


「えっ? 連絡先はもちろんわかりますけど……どうかしましたか?」


『例のOB訪問。今日そっちの大学の近くのカフェで会う約束してたんだけど、仕事の都合で時間前倒しさせてもらいたくて。でも、朝から連絡通じないんだよな』


(千尋さん、どうしたんだろう)


「……わかりました。私からも連絡してみます」


 そう伝えて電話を切り、すぐに千尋さんに発信してみたが、電源が入っていないようで繋がらなかった。

 再び修平くんに電話をかけ、その旨を伝える。


『……わかった。とりあえず大学行くわ。門で待っててくれない?』


「え!?」


 驚く暇もなく、電話は一方的に切られてしまった。


(え……どうしよう)


 困惑しながらも、言われた通り、急ぎ足で正門へと向かう。


 ちょうどそのタイミングで、千尋さんと仲の良いサークルの先輩から私のスマホに着信があった。


『美絵ちゃん!? 今、千尋と学校の最寄り駅で会ったんだけど。今日、美絵ちゃんの紹介してくれた先輩とOB訪問の約束してるのに、家にスマホ忘れちゃったってテンパってて。先輩の電話番号教えてもらってもいい?』


 事情がわかり、まずはホッとした。

 電話口に千尋さんが代わり、修平くんから時間変更の連絡があったこと、今から彼が大学の門に来るため私が待っていることを伝えた。


『よかった……本当にごめん!! すぐ向かうから!!』


 涙声で焦っている千尋さんをなだめ、ひとまず正門へと急いだ。


 ◇


 門に近づくと、スーツ姿で立つ長身が見えた。

 キャンパスを出入りする学生たちからチラチラと視線を向けられ、やや面倒くさそうに眉を寄せている。


「……あの」


 声をかけると、私を見て少しだけ目を見開く。


 ネイビーのスーツに、少し光沢のあるグレーのネクタイ。

 それをスラッと着こなす彼は、すっかり社会で働く大人の男性になっていて、初めて会う人のように感じられた。


「……おー。久しぶり」


 けれど、どこか冷めているその瞳は、間違いなく当時のままだ。


 少しだけ圧倒されそうになる気持ちを立て直し、千尋さんがスマホを忘れてしまっていた状況と、こちらに向かっていて、すぐに着くことを伝えた。


「お手数かけてすみません。あと今回のこと、引き受けてくれてありがとうございます」


 小さく頭を下げ、改めてお礼を伝える。

 けれど彼はそれには応えず、私を上から下まで一瞥した。


「……ガキんちょだったけど、大きくなったんだな」


 フッと鼻で笑うように言われ、子供扱いされたようでムッとする。


「修平くんは……すっかりオジさんになりましたね」


 少し棘を込めて返すと、「はあ?」と不機嫌そうな声が返ってきた。


 その時だった。


 ふと視線を向けた、数メートル先。

 こちらを見てピタリと足を止めている、見慣れた姿に気づいた。



 それは――私の大好きな、祥ちゃんだった。



(……! 久しぶりに、会えた……)


 その姿に心が歓喜し、今すぐ駆け寄りたい衝動が全身に湧き上がる。


 しかし、次の瞬間――ハッと我に返った。


 私は今、自分の気持ちを整理させてもらうために「考えたい」などと言って、彼とは距離を置いている状態だ。

 そんな中で、本来ならここにいるはずもない修平くんと一緒にいる。


 この修平くんを「元彼」だと認識するかはわからないけど……。

 でも祥ちゃんは、中学生のとき、私たちが一緒にいるところを一度だけ見たことがあると言っていた。

 その記憶と、目の前の光景が繋がってしまったら……。


 立ち尽くす彼の顔を見ると……その懸念が当たっているような気がしてしまう。


 祥ちゃんには、千尋さんのOB訪問のために修平くんと連絡をとったことも、今日ちょっとしたトラブルで急遽顔を合わせることになった経緯も、何ひとつ伝えられていない。

 祥ちゃんからしたら、私が裏で元彼と会っていたように見えてしまう。

 そんなの、不信感を抱かせてしまうに決まっている。


 全身から血の気が引き、冷や汗が滲む。


 真っ青になった私を見て、修平くんが怪訝そうにその視線をたどった。


「……何。知り合い?」


「……あ、彼氏で……」


 パニックになりながら、掠れた声で答える。


「あー」


 修平くんがそう言ったところで、祥ちゃんはスッと背中を向け、私たちのいる場所と反対方向へ歩き出してしまった。


「……っ、祥ちゃん……!」


 思わず呼び止める。

 けれど、一度も振り向かずに行ってしまった。


 取り返しのつかない過ちを犯してしまったかもしれない。

 そう思うと足の震えが止まらず、その場に立ちすくむことしかできなかった。


「……あんまり良くない状況? 何もないって説明しよっか?」


 修平くんが少し面倒くさそうに提案してくれたが、私は力なく首を振った。


「……いえ、大丈夫です……」


「あ、そ?」


 修平くんは苦笑いして、それ以上触れなかった。


 元はと言えば、私が悪いのだ。

 勝手に不安になって、距離を置かせてもらって……千尋さんの件も、今日のことも、何もかも話さずにいたから。


 全部、身から出た錆だ……。


 目の前が真っ暗になり、心が沈み込んで戻ってこられなかった。



 その後すぐ、息を切らした千尋さんが到着し、無事に修平くんと引き合わせることができた。


「本当にごめんね! ありがとう!」と平謝りする千尋さんを、なんとか作った笑顔で見送った。


 一人になった瞬間、自分のあまりの情けなさに、今にも涙が溢れそうだった。


 今日の夕方、祥ちゃんと会う約束をしているけれど。

 今度こそ本当に、幻滅されたかもしれない。

「なんて勝手なやつなんだ」と、嫌気をさされたかもしれない。


 ◇


 夕方。予定していた時間に合わせて、何度も祥ちゃんにメッセージを送り、コール音を鳴らし続けた。

 けれど、返信はなく、どれだけ待っても折り返しの連絡は来なかった。


 結局その日、私たちは会えなかった。


 自分の浅はかさに対する後悔で涙が止まらず、暗い部屋で一人、一睡もできない夜を過ごした。

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