第76話
美絵のいない、無機質で長い一日が繰り返されていた。
大学の講義が終わったあと、バイトも入っていない夕方。
今日も薄暗い部屋で一人、ただぼーっとソファの上に寝転んでいた。
ふと、ローテーブルに置いていたスマホが震える。
身体を起こし、ゆっくり画面に視線を移すと、浮かび上がった二文字が目に入った。
――『美絵』
「…………っ」
その瞬間、ハッと現実に引き戻され、心臓が大きく音を立てる。
彼女の声……今すぐに聞きたい。
けれど、電話に出るのが怖い。
僕は、だいぶ女々しい臆病者になってしまったようだ。
彼女の口から決定的な言葉を聞かされるのが恐ろしくて、伸ばした手に力が入らない。
それでも、鳴り続ける着信音に急かされるように、そっとスマホを持ち上げ、通話ボタンを押した。
「……はい」
努めて穏やかに、動揺を悟られないように応える。
『……祥ちゃん』
電話の向こうから、久しぶりに聞く彼女の声。
それは、微かに震えていた。
「……うん?」
短く返すと、息を呑む気配がした。
『……会いたい……話したい』
そっとこぼれた言葉は、涙の気配を帯びていた。
僕と同じように、会えない寂しさを募らせてくれているのだろうか。
それとも――僕にとって辛い決断を伝えるのが心苦しくて、泣いているのだろうか。
どちらかわからなかったけれど了承し、明後日に会う約束をして電話を切った。
通話が切れた後も、しばらくスマホを握りしめていた。
(……久しぶりに声が聞けて、嬉しかった)
やっぱり僕は、美絵のことが、震えるほどに愛おしい。
明後日会えたら、彼女の陽だまりみたいな柔らかい笑顔が見たい。
もし叶うなら、この腕で強く抱きしめたい。
これまで僕に向けてくれた色とりどりの表情が、次々と頭に浮かぶ。
でも、もし彼女の気持ちがもう以前とは違っていたら。
あの特別な笑顔が、もう僕に向けられないとしたら――。
期待と不安で、心がぐちゃぐちゃになった。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
◇
そして、約束の日。
僕は二限から授業があったため、重い足取りでキャンパスに向かっていた。
大学の正門にもうすぐ着くというところで、すれ違った女子学生たちの会話がふっと耳に入ってきた。
「門のところにいた二人、めっちゃ美男美女だったね〜。なんか絵になってた」
その会話を特に気に留めるつもりはなかったのだけれど、なぜか妙に頭に残ったまま足を進めた。
門の手前に着くと、その脇に立つ人影に視線が吸い寄せられた。
足が、意図せずピタリと止まる。
黒地に白い水玉模様のクラシカルなワンピースに、さらさらと揺れる栗色の髪。
(…………美絵だ)
今日の夕方に会う約束をしている、彼女だった。
久しぶりに見かけるその姿は、不思議と一層、美しく見えて。
抑えていたはずの胸が、勝手に激しく高鳴りだす。
そして――横にいる、こちらに背中を向けて立つスーツ姿の男に気づいた。
彼女が、彼を見上げながら、何かを喋っている。
不意に、さっきすれ違った女子学生の言葉が、頭に舞い戻った。
『門のところにいた二人、めっちゃ美男美女だったね〜。なんか絵になってた』
美絵が、数メートル先にいる僕に気づいた。
その瞬間、なぜかひどく驚き、サッと血の気が引いたような表情になる。
彼女の視線を追うようにして、スーツの男が振り返る。
その顔や雰囲気が、脳裏に、遠い冬の記憶をフラッシュバックさせた。
僕とは違った雰囲気の、色気の漂う大人の男。
中学の時、美絵と手を繋いで歩いていた――あの男。
(元彼、じゃないか……?)
美絵の唇が、「あ……」と小さく動いたのが見えた。
最後に僕の部屋で、泣いている彼女を見送ってから、今日まで長かった。
やっと会えた。
会えたことを喜びたいのに、目の前の状況に、ただ激しく困惑している。
硬直している美絵を見て怪訝な顔をした彼が、何かを尋ねている。
戸惑いながらも、それに答えているような美絵。
(なんで今……元彼と一緒にいるんだ)
頭の中が真っ白になる。
居た堪れなくなり、会話を交わす二人から目を背け、逃げるようにその場を後にしていた。
背後から、僕の名前を呼ぶ小さな声が聞こえた気がした。
でも、振り向けなかった。
もし振り向いて、彼と並ぶ美絵の姿をもう一度見てしまったら、自分がどうなってしまうかわからなかった。
そして、彼女が僕を追いかけてくる足音は、なかった。
◇
そのまま教室に向かい、授業を受けたけれど、教授の言葉は一文字も頭に入ってこなかった。
ノートの端をペンで無意味にぐしゃぐしゃと塗りつぶしながら、最悪の想像ばかりが膨らんでいく。
なぜ、彼と一緒にいたのか。
いつ、再会していたのか。
もしかして……彼と再会したから、自分との関係を「考え直したい」と言ったのか。
すべてのネガティブな考えが繋がり、それが真実なのだと思い知らされるような気がして、吐き気がした。
◇
その日の夕方に、美絵と会う予定だった。
どこで会うかは、直前にやり取りして決めようと話していた。
けれど、時間になっても、ベッドに倒れ込んだまま動けなかった。
スマホの画面には、美絵からのメッセージや着信が何度か来ていた。
画面が光るたびに胸が締め付けられたけれど、どうしても応えることができなかった。
そして、そのままその日が終わった。
拒絶してしまった罪悪感と、裏切られたような絶望感に押しつぶされそうになる。
けれどその日はもう、何も聞きたくなかったし、誰とも話す気力がなかった。




