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第73話

 分厚く濃い灰色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな週末の夕方。

 やけに空が低く、息苦しい。

 近づいている低気圧のせいか、朝からずっと頭の芯に鈍い痛みが居座っている。


 バイトを終え、薄暗い部屋に帰ってきた僕は、電気もつけないままソファベッドにダイブした。


 ドサッと重い音を立てて、置きっぱなしの枕に顔をうずめる。


「…………」


 すると微かに、本当に微かにだけれど、美絵の髪の甘い香りがまだ残っているような気がして、たまらなく胸が苦しくなった。



『……少し、考えさせて』


 あの日、美絵にそう言われてから、もう一週間以上が経った。

 今まで生きてきた中で、一番長い一週間だった。


 その間、講義とバイト以外は何もやる気が起きず、ただひたすら寝て過ごしていた。


『考えたい』というのは。

 僕との付き合いを考え直したい、つまり――『別れ』の可能性がある、ってことだろうか。


 その真意を、ちゃんと確かめればよかった。

 引き止めて話し合えばよかった。

 でも、涙で歪んだ美絵の顔を見たら、まさに『そういう意味』だと突きつけられるような気がして、恐ろしくて何も聞けなかったのだ。


 お互いが好きで、一緒にいるはずだった。

 こんなことになるなんて、思ってもみなかった。


 絶望とショックで頭が真っ白になり、あの朝、彼女をどうやって部屋から見送ったのか、記憶すら曖昧だ。


 こうなったのはきっと、僕のせいだ。

 暗闇の中で目を閉じると、自分の放った言葉が刃のように何度も胸を刺す。


『柳くんの前で泣いた、自分は?』


 美絵が何かに苦しんでいて、大きな不安を抱えていることは、感じ取れたのに。

 嫉妬や独占欲、そして「こんなに好きなのに、信じてもらえていない」という苛立ちで、あろうことか彼女が一番脆くなっているときに責めてしまった。


 受け止めるどころか、彼女の逃げ場を、この僕が塞いでしまったんだ。



 ――ブブッ、ブブッ、……


 さっきから、ベッドの端に放り投げたスマホが短く震え続けている。


 今夜はサークルの新入生歓迎会があって、そろそろ一次会が始まる時間だ。

 きっとグループチャットで、集合場所やお店のやり取りが飛び交っているのだろう。


 僕は、歓迎会には行かないことにした。

 時間的にはバイトが終わってから向かえば十分間に合ったけれど、サークルの集まりだから、美絵が来るかもしれない。

 僕がいたら、きっと気まずい思いをするだろうし……気まずい顔の彼女を見るのも辛い。

 最悪の場合、僕のせいで美絵が欠席してしまうかもしれない。

 だから、「バイトが入っている」という若干の嘘をついて、不参加にした。


 のろのろと身体を反転させ、仰向けになって天井を見上げる。

 暗い天井の壁紙をぼんやりと目で追いながら、ふと思った。


(……美絵と再会したあの日から、ちょうど一年が経ったんだな)


 一年前に偶然再会したときは、ただの「同郷の同級生」だった。

 あれから、お互いの気持ちが重なって、恋人同士になった。

 それなのに、皮肉なことに今のほうが、あの頃よりもずっと、ずっと苦しい。


 美絵の言う『考えたい』は、いつまで待てばいいのだろうか。

 僕から連絡をして、焦らせて、急かすようなことはしたくない。


 でも、彼女の中で答えが出たとき……僕たちは一体どうなってしまうのだろう。


 真っ暗な部屋で、答えの出ない問いだけが、濁った水のようにぐるぐると回り続けていた。

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