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第72話

 バイトを終えて更衣室でスマホを開いたが、美絵からの返信はなかった。


 彼女のほうはとうに終わっているはずの時間だ。

 帰り道、歩きながら何度も画面を確認したけれど、通知はない。


(家に着いたら、電話してみようか……)


 いや……昼間のこともあって、今は話したくないのかもしれない。

 とりあえず家に着いてから、もう一度メッセージを送って様子を見よう。


 そんな考えを巡らせながら、アパートの階段を上がる。


 角を曲がり、自分の部屋のドアが視界に入った瞬間――。

 僕は、目を見開いた。


「……え? 美絵!?」


 扉の前に、ちょこんとしゃがみ込んでいる小さな影。

 それは間違いなく、美絵だった。


 驚いて駆け寄る。

 ゆっくりと頭を上げた彼女は、「あ、祥ちゃん」と、少しホッとしたような、力無い笑顔を見せた。


「……いつからいた?」


「んー……二十分くらい前かな」


 思わず、その手に触れた。

 春とはいえ、夜風はまだ肌寒い。

 美絵の小さな手は、すっかり冷え切っていた。


 急いで鍵を開け、彼女を中に押し入れてドアを閉めた。


「……ごめん。突然来ちゃって」


「……暗くなってから来るときは、連絡ほしい。一人で夜道を歩くのも、家の前で待ってるのも危ないから」


 本当に驚いて心配したせいで、自分でもわかるくらい声が低く、硬くなってしまった。

 責めるつもりはなかったのに、美絵はビクッと肩を揺らしてから視線を落とした。


「……ごめんなさい」


「……怒ってるわけじゃないんだけど……心配だから」


 フォローするように言ったけれど、俯いたまま小さく頷くだけだった。


 靴を脱ぐ美絵の横を通ったとき、ふわっと甘い匂いが鼻をかすめた。

 シャンプーや柔軟剤じゃない。これは――。


「……お酒、飲んでたりした?」


 そう尋ねると、ややバツが悪そうに「……うん」と頷いた。


「……誰と?」


「店長と……柳くん」


「…………へえ」


 努めて平坦な声で返したが、胸の奥がチクッと刺されたように痛んだ。


(俺からのメッセージには返信せず、彼らと飲んでいたのか……)


 カチッ、と電気をつける。

 明るくなった部屋で改めて顔を見ると、目元が赤く腫れていることに気がついた。


「え、美絵……泣いた?」


 顔を覗き込むと、彼女はサッと目を伏せ、しばらく黙り込んだ。


「……うん。バイトでミスしちゃって、落ち込んじゃって」


 ポツリとこぼされた理由。

 なんとなく、それだけではないような気がした。


 でも、泣き腫らした顔を問い詰める気にはなれなかった。


「……そうなんだ」


 それ以上深く聞くのはやめて、小さく息を吐いた。


 とりあえず、先にお風呂に入ってもらった。

 続いて僕もシャワーを浴びて出る頃には、時間もすっかり遅くなっていた。


 お互い必要以上の会話はしないまま、電気を消して静かに布団に入った。


 いつもより少し隙間を空けた隣から、美絵の寝息が聞こえてくる。


(柳くんと……何話したんだろう)


 暗闇の中で、嫌な想像だけが頭の中をぐるぐると回り続けていた。


 ◇


 翌朝、重たい瞼をゆっくりと開けると、横にあるはずの温もりがなかった。


 祥ちゃんはベッドを背もたれにして床に座り、膝を立てて一点を見つめていた。

 その背中は、なんだかひどく寂しそうに見えた。


 身体を起こすと、私が目を覚ましたことに気づいた彼は振り返る。


「……おはよ」


 声のトーンは低かったけれど、私を気遣うように小さく微笑んでくれた。

 でも、その顔はどこか無理をしているようで。

 彼を疲れさせている自分の存在を突きつけられたような気がして、申し訳なさで喉の奥が熱くなる。


「……おはよう」


 弱々しい声で返すのが精一杯だった。


 祥ちゃんは再び前を向き直し、ぽつりぽつりと話し始めた。


「昨日……俺が『話せる?』ってメッセージ送ったから、来てくれたんだよね。せっかく来てくれたのに、ちゃんと話せなかったな。……ごめん」


 その優しい声が胸に刺さって、慌てて首を振った。


「ううん。私こそ……バイトで疲れてるのに遅い時間に突然来て、ごめんね……」


 そこから、重苦しい沈黙が流れた。

 いつも一緒に過ごしている部屋の中がしんと静まり返っていて、自分の嫌な心臓の音が聞こえてきそうだった。


 やがて、その静寂を破るように祥ちゃんが口を開いた。


「昨日泣いたのって……本当に、バイトのミスのことだけ?」


「……えっ」


「……昼間の、志乃といたこと。何か関係ある?」


 核心を突かれ、息を呑んだ。


 答えられない。

 図星だったけれど、どう返したらいいのかわからなかった。


 祥ちゃんが身体をこちらに向け、真っ直ぐに見つめる。


「本当に、何もないよ……。それでも、美絵をいつも不安にさせるのって……俺に何か足りないところがあるから?」


 いつも陽だまりのように穏やかな顔が、今は悲しそうに歪んで見えた。


「…………っ!」


(違う。違うの)


 必死に首を振って否定した。


 原因は、祥ちゃんじゃない。

 自分に自信がない、私の弱さ。


 でも、本当のことを伝えたら……?


 志乃さんのような、意志と目標をしっかり持った子と自分を比べて、勝手に惨めになっているなんて知られたら。

 一生懸命、自立しようとしている祥ちゃんに、この重たすぎる依存心を悟られてしまったら。


「…………っ……」


 呆れられて、幻滅されるのが怖くて、本当の気持ちが喉の奥でつっかえて出てこない。

 黙り込んでひたすら首を振るだけの私を見て、祥ちゃんはギュッと眉を寄せた。


「じゃあ……なんでそんな、苦しそうなの……」


 その悲痛な響きに胸を締め付けられ、すがるように絞り出した。


「……私以外の……女の子の名前。あんな、優しい声で呼ばないでほしい……」


 声が震え、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。


 違う。

 伝えたいことは、こんな単なるやきもちじゃない。

 もっと根本的な、自分の弱さの問題なのに。


 本心とズレたことしか言えないもどかしさと、不甲斐なさとで、さらに涙が溢れて止まらなくなる。


 祥ちゃんは、目を伏せた。


「だから、何もないって言ってるじゃん……」


 そして、ややトーンを落とした、抑えきれない感情が漏れ出てしまったような声で、続けた。



「……じゃあ、柳くんの前で泣いた、自分は?」



 その一言に――ハッとした。


『俺も妬くことあるよ』

『柳くんだって、なんかお洒落でカッコいいし』


 以前、彼が少し照れながら明かしてくれた言葉が、冷水のように頭から浴びせられた気がした。


 祥ちゃんの言う通りだ。

 祥ちゃんの、ただのクラスメイトへの接し方にこんなにも文句を言う私は、他の男の人の前で、お酒を飲んで、涙を流した。

 私のほうが、よっぽど最低じゃないか。


 一気に血の気が引き、頭の中が真っ白になる。


 何も言えなくなった私を見て、祥ちゃんは我に返ったように唇を噛んだ。


「……ごめん」


 祥ちゃんは何も悪くないのに。

 謝らせたいわけじゃないのに。

 私を傷つけたと、胸を痛めている姿を見るのが、たまらなく苦しい。


(ダメだ……今はまともに話せない)


 自分の考えをきちんと整理して、どんなふうに伝えたらいいか、考え直したい。


「美絵、何か言って……」


 耐えきれなくなったように、私に向かって手を伸ばしてきた。


 優しい人差し指が、涙に濡れた頬に届く直前。

 パニックになったまま、とにかくこの場から一度離れなければと思い、振り絞るように声を出した。



「……少し、考えさせて」



 その瞬間。


 伸ばされていた手はピタリと止まり、瞳の色は、みるみるうちに深い哀しみと絶望に染まっていくのがわかった。


(…………あ……)


 私、言葉を選び間違えた。


 ――『考えさせて』


 それは、別れや距離を置くことを突きつける、残酷で冷たい拒絶のように聞こえてしまうのだと、彼の表情を見て気がついたのだった。

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