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第70話

 授業が終わった私は、机の上のテキストやペンを鞄にしまっていた。


 ふと顔を上げると、前の席に座っていた千尋ちひろさんが、出口に向かって歩いてくるのが見えた。

 なんだか浮かない顔をしている。


 千尋さんはスポーツ観戦サークルの先輩で、同じ史学部の四年生。

 この授業は必修ではなく、何年生でも受けられる内容なので色々な学年の学生がいる。


 珍しく、カッチリとしたリクルートスーツを着ていた。


「……あっ、美絵! 美絵もこれ受けてたのね〜」


 私に気づき、少し表情を緩めながら声をかけてくれた。


「お疲れさまです! 千尋さんもでしたか」と挨拶を返す。


 千尋さんはサークル内で唯一同じ学部ということもあって、これまでも授業の履修登録やテストの過去問のことで何度もお世話になっている。

 ややおっちょこちょいなところはあるけれど、優しくて喋りやすい先輩だ。



「美絵、この後どこ行くの?」


 一緒に出口まで歩きながら尋ねられた。


 スマホをチラッと確認すると、待ち合わせをしている祥ちゃんから『カフェテリアにいるよ』とメッセージが入っている。

「カフェテリアに行きます」と答えると、千尋さんは「私、学務課に用があって。途中まで一緒に行こ〜」と言ってくれた。


「……はあああっ」


 途端に、千尋さんは肩を落として長いため息をついた。

 そしてすぐにハッとしたように「あっ、ごめん……」とこちらを見た。


「……どうかしたんですか?」


「いやー、就活が憂鬱でさ。面接とか全然上手く喋れないのに、周りの子たちはすごくちゃんとしてるように見えるし……。まだ焦る時期ではないってわかってるんだけど、もう内定もらってる同期もいてさあ……」


「そうなんですね……」


 私も二年後には向き合わなきゃいけないことなんだな、と思いながら「うんうん」と話を聞く。


「今のところ第一志望は〇〇商事ってところなんだけど、OB訪問のツテもないし、全然情報得られなくて。もっと人脈づくり頑張っておけばよかった……あっ、ごめんね。私、愚痴ばっかり……!」


「全然いいですよ。……あの、第一志望って、どうやって決めたんですか?」


 気になって聞いてみると、千尋さんは「うーん」と言いながら、少し真面目な顔になった。


「史学部はやっぱり、大学でやってきたことと就職を直接結びつけるのは難しくて。だから私は半年くらい前に、『学業は学業で頑張る。就職は就職で、行きたいところを見つけよう』って割り切って決めたかな? とにかくいろんな会社を見てみて、企業理念に一番共感できたのが〇〇商事なの!」


「理念に共感……」


「そうそう! 自分のやりたいことと会社の目指す方向が同じだと、頑張れそうじゃん?」


(そっか。千尋さんのような考え方もあるんだ……)


 ハッとさせられた。

 必ずしも大学で学んだことを仕事にしなくても、自分の道を見つけて進んでいくことができるんだ。



 そうこう話をしているうちに、学務課の前に着いた。


「ありがとー。美絵と話して癒されて、ちょっと元気出た!」


「私こそ、色々聞かせてもらってありがとうございます。千尋さんが落ち着いたら、また色々教えてもらいたいです」


「もちろん! 為になること教えられるように頑張るっ」


 スーツ姿の千尋さんは、両手でガッツポーズを作って笑ってくれた。


 ◇


 彼女と別れてカフェテリアに向かいながら、さっきの話を頭の中で反芻していた。


『就職は就職で、行きたいところを見つける』か……。


 今、自問自答してみて思いつく自分の願望は――。

 ただ『祥ちゃんと一緒にいたい』ということだけだった。


 地元へ帰りたいという強い思いも、東京に残って何かを成し遂げたいという野心もない。

 自分の中に、未来に対する主体的な希望が何ひとつ見当たらない。


 ただ、祥ちゃんの近くにいたい。

 彼についていきたい。


(私……祥ちゃんに依存しているんだろうか)


 教職という明確な目標に向かって歩き出した彼に、こんな「自分のない考え」を知られたら、幻滅されてしまうかもしれない。

 自立した大人の女性には程遠い自分に、愛想を尽かされてしまうかもしれない……。


 入り口から中を覗き込み、祥ちゃんがいつもよく座る席を探す。


(あ、いた――)


 見つけた瞬間、私の足はピタリと止まってしまった。

 彼の隣に、女の子が座って、一緒にテキストを眺めていたのだ。


(誰だろう……)


 近づいてみると、見たことのない子だった。

 私よりずっと大人っぽくて、落ち着いた雰囲気の子……。



「あ、志乃。忘れてる」


 祥ちゃんは彼女のことを、『志乃』と呼んだ。

 たったそれだけのことなのに、胸の奥がギュッと締め付けられる。


 子供っぽいって、わかってる。

 わかってるけど――。


 優しくて落ち着いていて、少しハスキーな、私の大好きな声。

 その声で、他の子の名を呼びかけたことが、どうしようもなく嫌だった。


 たとえば、いずみのことも祥ちゃんは下の名前で呼んでいるけれど、それとは全然違うニュアンスに聞こえてしまった。


 彼女は、祥ちゃんと同じく教師を目指しているという。


(もしかして……祥ちゃんが教育の道に進む決断をしたのは、彼女が相談に乗ったり、背中を押したりしたからなのかな)


 考えすぎかもしれない。ただの妄想かもしれない。

 でも――すごくありえる話。


 リアルでネガティブな思考が、次々と私の頭を支配していく。


 なんとか微笑みをつくって「大丈夫だよ」と返すのが精一杯だった。


 祥ちゃんとその子の間に流れる、同じ目標を持った『同志』のような空気に、私は居た堪れなくなってしまった。


 バイトまではまだ時間があったのに、せっかく待っていてくれた彼の元から逃げるように去ってしまった。


 重い足取りでバイト先に向かいながら、深い自己嫌悪に陥っていた。


 ◇


「……あの、アイスを注文したんですけど」


 戸惑う女性の声で、ハッと我に返った。


 バイトが始まってからは、さっきまでのことは忘れて目の前の仕事に集中しようと思っていたのに。

 カウンターで柳くんが作ったドリンクを受け取ったお客さんが、少し困った顔をしている。


「…………!」


 レジの履歴を見ると、たしかに言われた通り「アイス」と打ち込んでいる。

 けれど、ドリンク担当の柳くんに、誤って「ホット」と伝達してしまったのだ。


(やってしまった……!)


「も、申し訳ありません……!」


 慌てて頭を下げると、状況を察した柳くんがスッと横から出てきた。


「申し訳ありません。すぐに作り直しますね」


 彼は手品のような手際で、あっという間にドリンクを作り直し、カウンター越しに差し出した。


「ありがとうございます。気にしないでください!」


 そう微笑んでもらえたけれど、私の心臓はバクバクと嫌な音を立てていた。



 お客さんが席に戻ったあと、柳くんに向き直った。


「……ごめんなさい。私が言い間違えて……」


 彼は、布巾でカウンターを拭きながらチラッとこちらを見た。


「人間がやってることなんだから、ミスくらいあんだろ。気にすんな」


 ぶっきらぼうな言葉が、今の弱っている私にはひどく沁みてしまった。


 仕事にまで私情を持ち込んでしまった自分が情けなくて、さらなる自己嫌悪に苛まれた。


 ◇


 クローズ作業まで終わり、「お疲れさまでーす……」と力なく言いながら、店長と柳くんがいるバックヤードに入った。


 スマホをいじっていた柳くんが顔を上げ、「……暗っ。まだ引きずってんの?」と呆れたように言う。

 曖昧に笑い返し、デスクで作業をしている店長のそばに寄った。


「店長……今日のオーダーミス、本当にすみませんでした」


 改めて謝罪すると、店長はパッと顔を上げて、眉を下げながら笑った。


「ええ? 全然いいよ! すぐに謝って注文通りのもの出せたし、お客さんも怒ってなかったんでしょ? 美絵ちゃんはいつも頑張ってくれてるんだし、そのくらい気にしないでね」


「……はい。ありがとうございます」


 ホッと息を吐いてロッカーの前に立ち、スマホを取り出す。

 画面を見ると、祥ちゃんからメッセージが届いていた。


『バイトの後、少し話せる?』


 忘れていたわけではないけれど、あえて頭の隅に追いやっていたカフェテリアでの記憶が、鮮明に蘇ってくる。


(怒ってるかな……それとも、呆れられてるかな)


 重い気持ちを引きずりながら、制服から私服へと着替えた。


 更衣室から出てきた私の顔を見て、店長はポンと手を打ちながら明るい声を上げた。


「そうだっ! 美絵ちゃんも柳くんも、最近ハタチになったのよね? どう? この後、仕事後の一杯、付き合ってくれないかな! 奢るから!」


「えっ?」


 店長から個人的に飲みに誘われるなんて思ってもいなくて、目を丸くした。


「まあ、俺はいいですよ。腹減ったし」


 柳くんはスマホをポケットに突っ込みながら、あっさりと快諾する。


 私は、祥ちゃんからのメッセージのことも、すごく気になっていた。

 でも、正直……今の状態で話をして、ネガティブな感情をぶつけてしまうのが怖かった。


 せっかくの珍しいお誘いだし……。

 それに少しだけ、現実から逃げたかったのかもしれない。


「……私も、行きます!」


 スマホの画面をそっと伏せて、店長の誘いに頷いた。

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