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第68話

「3、2、1……!」


 小さな間接照明だけを点けた薄暗い私の部屋で、ショートケーキに立てられた『2』と『0』の形のロウソクを、フーッと息を吹きかけて消した。


「……誕生日、おめでとう」


 暗闇の中で思いきり甘い声が降ってきて、大きな腕に抱きしめられた。

 そのまま、ぐっと想いのこもった力強いキスをひとつ受け取る。


「……ありがとうっ」


 照れながらお礼を言うと、祥ちゃんは立ち上がり、パチッと部屋の電気をつけた。


「ケーキ、食べよっか」


 そう言って、テーブルに並んだ二つのケーキにフォークを伸ばす。


「おいしー。夜中にケーキ食べるなんて背徳感あるけど、最高に幸せ」


 クリームを頬張りながら言う。

 祥ちゃんはそんな私をニコニコと見守りながら、自分のケーキをわずか三口くらいであっという間に平らげてしまった。


「あれ、持ってくる?」


 祥ちゃんが再び立ち上がって、冷蔵庫を開ける。

 取り出したのは、さっき買ってきたアルコール度数低めの桃味のチューハイだ。

 それを丁寧に、グラスへと注いでくれた。

 彼のグラスには、烏龍茶が入っている。


「成人おめでとー」

「ありがとー」


 コツン、と乾杯した。


 二十歳になったということで、初めてのお酒だ。

 両親は二人ともお酒に弱くないから、遺伝的には大丈夫なはずだけれど……少し緊張しながら、恐る恐る一口飲んでみる。


「……美味しい!」


 桃の甘さが強くてジュースみたいだ。

 二、三口と飲み進める。


「どう? 大丈夫そう?」


 心配そうに気にかけてくれる彼に、「うん!」と笑顔で答えつつも、油断せずにちびちびと飲み進めることにした。


 とはいえ、アルコールではある。

 徐々に身体がポカポカして、頭の芯が若干ホワホワしてくる感覚があった。


「美絵も、もうハタチなんだなー」


 秋生まれの祥ちゃんが二十歳になるのは、まだ半年以上先だ。


「はい。ハタチの抱負は?」


 彼が手をグーにして、マイクを向けるように私の口元へ寄せた。

 それは、祥ちゃんの十九歳の誕生日のとき、私がやった仕草だ。


「うーんとね……」


 普段なら寝ている時間の眠さと、初めてのお酒で、少し頭がぼーっとしているかもしれない。

 私は微笑みながら、心の中にあった本音を口にした。


「祥ちゃんの隣で、ちゃんと胸を張れるように頑張りたい」


 その言葉に、少し驚いたように目を丸くする彼。


「美絵は今のままで十分、魅力的な人だよ」


「ありがとう……。でもね、私自身がそう思えるようになりたいの」


 見つめ返しながら言うと、祥ちゃんは「なるほど……」と呟き、やや釈然としない様子で頬杖をついて前を向いた。


「…………」


 なんだか考え込んでいるようなその横顔を眺めていたら、ふと、無性に触れたくなってしまった。

 手を伸ばし、ほっぺたを人差し指でツン、と突いてみる。


 私のより少し硬い、男の子らしい弾力。


「え、なに?」


 もう一度ツン、とする。


「……もしかして、ちょっと酔っ払ってる?」


 笑いながら聞かれて、「ううん」と首を振りながら、大きな背中にギュッと抱きついた。


「大好きなだけ〜」


 ケラケラと笑い声が漏れる。


「……やっぱり酔っ払ってるじゃん」


 呆れたように笑う祥ちゃん。


 さらに楽しくなってしまって、彼の左側のほっぺにチュッ、右側にもチュッと何度か軽いキスをした。


「ちょっ、と……。いや、可愛すぎるから……マジでやめて……」


 いつもは余裕のある彼が、苦笑いしながらやや本気で困り始めた。

 その反応が面白くて、彼の腕の中でまた笑い転げた。


 結局、缶チューハイを一本飲み終える頃には、私の瞼は鉛のように重くなり、開けていられなくなってしまった。

 最後は「ほら! 寝るなら歯磨いて」と祥ちゃんに無理やり洗面所へ連行され、半分寝ぼけながら歯を磨き、そのままベッドへと倒れ込んだのだった。


 ◇


 翌朝。

 誕生日当日は休日で、丸一日予定を空けてくれた祥ちゃんと一緒にいられる。


 以前から私が行きたかった、大きな商業施設の中にある水族館へ出かけることにした。

「絶対に混むよね」と話し、気合を入れて早起きして向かうと、やはり最寄り駅に着いた時点ですでにホームは多くの人で賑わっていた。


 けれど、開館と同時になだれ込んだ水族館の内部は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 一歩足を踏み入れると、そこはまるで深い海の底。

 薄暗い空間は、幻想的な青い照明に照らし出されている。

 水の音をベースにした静かな環境音楽が心地よく響き、その穏やかなリズムに包まれていると、本当に海の中をゆっくりとお散歩しているような、不思議な感覚に満たされていく。


 手を繋ぎながら、色とりどりの熱帯魚や、ふわりふわりと漂うクラゲの水槽をゆっくりと眺めて歩いた。



 やがて、一番奥の広い空間にある、巨大な水槽の前に辿り着いた。


 大きなエイやサメから、群れをなす小さな魚たちまで、みんなが深い青色の中で優雅に泳ぎ回っている。


「わー……綺麗……」


 その光景に、すっかり見惚れてしまった。


 水槽の正面にあるベンチに並んで腰を下ろし、ぼんやりと青い世界を眺めていたとき。

 祥ちゃんが、ぽつりと口を開いた。


「……あのさ。俺、将来のこと迷ってるって言ってたけど……教師の道に進もうかなって思ってる」


 彼は、少年野球の大会での出来事や、そこで自分の無力さを痛感したこと、そして「誰かの成長に本気で向き合いたい」と心が動いたことを、静かに、熱を込めて話してくれた。


 青い光に照らされた瞳は、迷いがなく、真っ直ぐで……とても眩しい。


 一人で考えて、ちゃんと答えを出せるなんて、すごいな。

 祥ちゃんが「なる」と決めたのなら、絶対なれるに決まっている。


 でも——。


 先生になったら、どこで働くんだろう。

 東京に残るのかな。それとも、地元に帰るのかな。

 大学を卒業しても、私たちは一緒にいられるのだろうか。


『ずっと一緒にいられる?』


 その言葉が喉まで出かかったけれど、今の彼に向けるには、あまりにも重く感じてしまった。

 私はぐっと息を呑んで、その言葉を胸の奥に押し返した。


「……うん。応援する」


 精一杯の微笑みを作って頷くと、祥ちゃんは「ありがと」と、嬉しそうに目尻を下げた。


(よかった。間違えてない……)


 少し安堵して、彼の右肩にそっともたれかかった。


 目の前の巨大な水槽の中では、無数の魚たちがゆらゆらと泳ぎ続けている。


 大きくてあたたかい祥ちゃんという存在に包まれながら、確かな行き先を持たず、ただ揺らめいて不安げに彷徨っている――。

 今の自分を、その小さな魚たちに重ねてしまうのだった。

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