第65話
夜の冷たい空気を切って歩いているうちに、すっかり身体が冷え切ってしまった。
アパートに着くと、祥ちゃんは「風邪引くから先に入りな」とすぐにお湯をためてくれて。
お言葉に甘えて一番風呂をもらった。
彼も冷えているかもしれないから、早めに上がる。
祥ちゃんの部屋に置かせてもらっている、私専用のパジャマ。淡いイエローの柔らかなガーゼ生地に腕を通した。
ふわりと鼻をくすぐる、彼と同じ柔軟剤の匂い。
この香りに包まれるといつも、深い安らぎと、彼に抱きしめられているようなドキドキが混ざり合って、なんともこそばゆい気持ちになってしまう。
洗面所を出てお礼を伝えると、祥ちゃんは「いーえ」と言って、いつものごとく烏の行水のような猛スピードでシャワーを終えて出てきた。
「いつも通り早いね」
思わず笑ってしまう。
私はまだ、ソファベッドに座って壁にもたれかかりながらタオルドライ中だった。
濡れた髪のままの祥ちゃんが、私の後ろへと回る。
そして、壁との間に入り込むようにして座り、両足で私をすっぽりと挟み込んだ。
「貸して」
膝の横に置いていたドライヤーをスッと取って、私の髪を乾かし始めた。
「……短い。サラサラ」
温風とともに、大きな手が私の髪を梳く。
その心地よい感触にきゅんとしながら、目を細めた。
「短いの、絡まなくて楽なんだよねー」
「……中学のときは、もっと短かったよな」
耳元で聞こえた呟きに、少し驚いて振り返ろうとしたけれど、頭を固定され阻まれた。
「あ、うん! 部活やってたからね。ずっと顎くらいのボブだったかな。……よく覚えてるね」
「……そりゃあね」
頭上から、フッと小さく笑う声が降ってくる。
『そりゃあ、ずっと好きだったからね』
言葉には出されなかったけれど、そう勝手に変換してしまった私は、こっそりと頬を緩ませた。
私の髪は短くなったおかげですぐに乾き、二人の位置を交換して、今度は私が祥ちゃんの髪を乾かし始めた。
「祥ちゃんも、少し伸びたね」
指先に絡む、少し長めの前髪を乾かしながら言う。
彼は「邪魔だから切りたいんだけど、美容院行くの億劫で」と、面倒くさそうに苦笑いした。
「短髪の祥ちゃんも好きだけど、このくらいの祥ちゃんも好きだよ」
素直な感想を口にすると、広い肩がピタッと固まった。
「どうしたの?」
不思議に思って覗き込むと、視線を逸らされた。
「いや……なんか今日、ストレートじゃない?」
照れたように耳を赤くしている姿に、愛おしい気持ちでいっぱいになった。
◇
ドライヤーを終え、ベッドに寝転がって向かい合う。
祥ちゃんは片手で、私の短くなった毛先をずっといじっている。
気持ちいいけれど……少しだけくすぐったい。
「……今日、何時からあの店いたの?」
彼がふと尋ねてきた。
「五時だよ」
「えっ、五時間も!? 何話してそんなに盛り上がってたの?」
目を丸くする祥ちゃん。
まさか『バレンタインのチョコ事件について相談していた』とは言えない。
「んー、いずみと正人くんの過去の恋バナとかかな? 正人くんの前の彼女の話、聞いたことある? なんか切なかったなー」
「あー、少しだけ聞いたことある」
「そっか。男の子同士でも、そういう話したりするんだね」
「いや、ほとんど話さないよ。正人のをちょっと聞いただけで。俺は話せるような過去もないし」
その言葉に、私も同意して頷いた。
「私も話せるような話ないから、二人の話をずっと聞いてるだけだったけど、楽しかったよ」
「……え、でも……」
「なに?」
首を傾げると、祥ちゃんは「あ。まずい」という顔をして口をつぐんだ。
(あれ……?)
私の元彼(と言えるかも微妙な相手だけれど)の話は、今まで聞かれもしなかったし、自分から話す機会もなかった。
だから、祥ちゃんは知らないとばかり思っていた。
でも、今の反応は――。
「……祥ちゃん、何か知ってたりする?」
恐る恐る尋ねると、彼はバツの悪そうな顔で、ぽつりとこぼした。
「……実は中学のとき、美絵が彼氏っぽい人と歩いてるの……見たことがあって」
「えっ! 祥ちゃんが……見たの!?」
元彼と並んで歩いたことなんて、ほんの二、三度しかないはずだ。
……それを、たまたま見られていたなんて。
「あ……そうだったんだ! いや、あれはね……付き合ってたかどうかも怪しくて……」
慌てて身を乗り出す。
「何回か、ほとんど喋らない映画デートに行っただけで……本当に何もなく終わったの。だから私の中では、ちゃんと付き合ったのは祥ちゃんが初めてっていう気持ちで……。ごめんね、ちゃんと言ってなくて……」
必死に弁解すると、祥ちゃんは「あ……そうなんだ」と少し安堵したような息を吐いた。
けれど、なんだかまだ釈然としない様子でいる。
少しの間、沈黙が落ちた。
『二人でさ、なんでもないことでいいから、もっといっぱい喋ったほうがいいかもよ』
ふと、さっきの正人くんの言葉が思い出される。
「……っていう感じで、話せることも特にないんだけど。過去の話とかって……祥ちゃんは聞きたいタイプ?」
私が尋ねると、祥ちゃんは「うーん……」と眉間を寄せて悩んだ。
「わかんない。知りたくないような気もするし、知ったら少しスッキリする部分もあるし……」
「ごめん……知りたくなかった?」
焦る私に、彼は首を横に振る。
「いや、お互い隠し事とかなく、気にせず話せるほうがいいとはわかってるんだけど……やっぱり知ると……妬くし」
「えっ」
予想外の言葉に、素っ頓狂な声を出してしまった。
「祥ちゃんって、やきもちとか焼くの?」
「え? ……うん、普通に」
「今まで妬いたことあった?」
「あるよ」
「えっ、いつ?」
質問攻めにする私に、「めっちゃ聞くな」と苦笑いする。
そして、視線を逸らして口を開いた。
「……その、元彼にも妬くし。美絵のバイト先の柳くんだって、なんかお洒落でカッコいいし。……今日も、正人より先に美絵の髪見たかったし」
ヤケになったようにぶっちゃけられる言葉の数々。
今まで見たことのない、少し拗ねたような顔。
私は、自分でもわかるくらい目をパチパチと瞬かせながら、彼を凝視してしまった。
柳くんがカッコいいなんて、一度だって思ったことはないし、そんな目で見たことすらない。
(……そっか。私、祥ちゃんしか見てなかったから)
自分自身が祥ちゃん一筋で、彼のことで頭がいっぱいだったから。
彼から見てどう映っているか、どう感じているかを、ちゃんと考えられていなかった。
正人くんの言葉が、改めて胸に深く刺さる。
『あんなに彼女のこと好きなやつ、見たことないよ』
(祥ちゃんも私と同じように、やきもちを焼いて、拗ねてしまったりするんだ……)
たまらなくなって、目の前の身体に、ぎゅっと抱きついた。
「っ、美絵……?」
「私は……祥ちゃんだけが大好き」
胸元に顔を埋めたまま伝えると、祥ちゃんの腕が私の背中に回り、少し照れたような声が頭上からかけられた。
「……俺もだよ」
私をあやすように、優しく背中を撫でてくれる大きな手。
祥ちゃんの胸は、とてもあたたかい。
安心感に包まれた瞬間、いずみや正人くんと五時間も喋り通した疲れが、急激に、波のように押し寄せてきた。
彼の規則正しい心音を子守唄にしながら、穏やかな夢の中へと旅立った。




