第62話
壁一面に赤い提灯がずらりと並び、木の温もりが漂う居酒屋。
肩が触れ合うほどの狭い半個室で、僕はクラスの男子四人でジョッキを傾けていた。
まだ期末の試験期間の真っ最中なのだが、山場は越えたため、中間打ち上げということで集まっている。
普段は大学の課題とバイトに追われ、週に何度も集まる彼らの誘いに乗れていないけれど、たまにはこういう息抜きも悪くない。
「祥太郎。なんか最近、輝いてね?」
向かいに座る正人が、数秒間僕をじっと凝視したあと、ボソッと呟いた。
「……はい?」
「あー、わかる。なんかカッコよくなったよな」
「幸せだから男としての余裕が出てるとか?」
周りの連中まで身を乗り出して分析を始める。
「何それ。わかんない」
僕は苦笑いして受け流した。
自覚はまったくない。
ファッションや流行には疎いし、着ているのも安くてシンプルな服ばかりだ。
美絵に良く思ってもらえるように、身だしなみに気をつけている程度でしかない。
『カッコいい』というのは、もっとこう……。
ふと、美絵のバイト先の同僚である柳の姿が頭をよぎる。
東京出身の彼は、なんていうか、すごく垢抜けていた。
カフェの制服の着こなしひとつとっても様になっていて。
美絵とも……親しげに話していた。
(……いや、今のなし。思い出すな、俺)
胸の奥がチリっと焼けるような苛立ちを覚え、慌てて思考をシャットアウトした。
醜い嫉妬なんて、するもんじゃない。
「いーなー、俺も彼女ほしいわ。もうすぐバレンタインだぜ?」
「今からアピールしまくれば、誰かしらくれねーかな」
「祥太郎さん、その輝きを俺らにも分けてくださいよ」
ガヤガヤと盛り上がる声を「はいはい」と適当にスルーする。
バレンタインは、美絵と会う約束をしている。
恋人になってから、初めて迎えるバレンタイン。
どんなものをくれるんだろう。
美絵がくれるものなら、なんだって嬉しい。
結局、僕も彼らと同じか、それ以上に浮ついているのだった。
◇
二限の試験を終えた僕は、学食で手早く昼食を済ませ、来年度の単位相談のために学務課へと足を向けた。
売店の前には『バレンタインフェア』と銘打たれた特設コーナーがあり、色とりどりのチョコレートが華やかに並んでいる。
今日は、二月十四日。バレンタイン当日だ。
四限まで講義がある美絵が、終わり次第、僕の家に来ることになっている。
(少し掃除して待ってるか。……なんか、ソワソワするな)
浮ついた足取りで歩いていた、その時だった。
「……祥太郎くん」
後ろから声をかけられて振り返ると、同じクラスの大石が立っていた。
「おお。お疲れ」
挨拶を返したが、彼女の顔はどこか強張っている。
「? どうした?」
不思議に思って問いかけると、彼女は目を合わせないまま、手のひらサイズの水色の紙袋を差し出してきた。
「……あの……これ……」
一瞬、思考が止まる。
快活な彼女の、普段とは違う様子から、鈍感な僕でも正解を導き出してしまった。
――バレンタインか? これ……。
けれど、僕には美絵がいる。
彼女もそのことは認識しているはずだ。
「あ……」
戸惑い、断る言葉を探そうとした瞬間。
彼女がそれを遮るように早口でまくし立てた。
「……クラスのみんなに配ってて! さっき正人くんたちには渡したんだけど……祥太郎くんいなかったから……!」
「……ああ、そうなんだ」
『クラスのみんなに』という言葉に、わずかな安堵が胸をかすめる。
それなら、いわゆる義理チョコという解釈でいいはずだ。
いや、でも……と思考にブレーキをかける。
義理なら受け取ってもいいのか?
いや、世間一般のルールはどうでもいい。
問題は、美絵がどう思うかだ。
脳裏をよぎったのは、他の女の子との関わり方にやきもちを焼く美絵の姿だった。
やはり……義理であっても受け取るのはやめておこう。
「…………」
角が立たない断り方を選ぼうと、数秒の沈黙が流れる。
足元を見つめていた彼女が、その静寂を切り裂いた。
「……だから、お返しとか気にしないで!」
僕の視線を拒むように、紙袋を無理やり手元に押し付けてきた。
「あ、ちょっと待っ……」
「……っ、それじゃあ!」
「おい……!」
呼び止める声も虚しく、彼女は脱兎のごとく去っていった。
(どうしよう。行ってしまった……)
困り果てた僕は、ひとまずそれを鞄の奥にしまい込み、釈然としないまま用事を済ませに向かった。
◇
家路につく道中も、思考は堂々巡りだった。
(みんなに配ってるって言ってたし、義理だよな……? でも、あの態度……)
不安を抱えつつ、帰宅してすぐに中身を確認する。
紙袋と同じ、綺麗な水色の箱。
その中には、繊細に作られた生チョコが四つ。
……本当に「義理」なんだろうか。
僕はチョコレートに詳しくない。
けれど、小学生の頃に幼馴染が野球チーム全員に配っていた、あの大雑把な詰め合わせとは明らかに何かが違う。
考えるほど不安になり、正人にメッセージを送った。
『大石からバレンタインもらった?』
いつも通り、即座に返信が来る。
『おー、もらったぜ! タッパーに入ったクッキー一枚でも彼女なしの俺には染みるわー(笑)』
血の気が引くのがわかった。
正人には、クッキー一枚。僕には、丁寧に箱に詰められた生チョコ。
明らかに、熱量が違う。
(申し訳ないけど……これは後できちんと返そう)
そう決めた、その時。
――ピンポーン。
突然、静まり返った部屋にインターホンの音が鳴り響いた。
「っ!」
不意を突かれて、肩がビクッと跳ねる。
けれど、慌てて壁の時計を仰ぐと、四限が始まったばかりの時間。
講義を受けている美絵は、まだ到着しないはずだ。
焦っていた僕は、荷物の配達か何かだろうと思い、チョコレートをテーブルに出したまま、確認もせずにドアを開けてしまった。
「じゃーん!」
そこにいたのは――世界一大好きな笑顔。
「びっくりした? 四限が休講になったから、早く来ちゃった!」
えへへ、驚いた? とはにかむ美絵だった。
「……びっくりした! いや、その……今、家が汚くて! ちょっと待って……!」
「えっ? 全然気にしないよ。一緒に片付けようか?」
制止する間もなく、彼女がするりと靴を脱いで部屋に上がる。
そして、すぐにその動きが止まった。
(あ……気づかれたよな……)
「……それ……どうしたの?」
嘘をつく選択肢はなかった。
正直に、さっき起きたことを話す。
「……クラスの子に、義理チョコだって言われてもらったんだけど。でも、義理じゃないかもしれないから、返そうと思ってて……」
バツが悪そうに弁明する僕の言葉を聞き、美絵がそっと箱の中を覗き込む。
「……そっか。……たしかに、義理じゃないっぽいね」
怒ってはいない。
けれど、玄関で見せた満開の笑顔が、声とともにみるみる曇っていくのがわかった。
「……ごめん。対応、間違えた」
謝る僕の顔を、彼女は見ようとしない。
「……祥ちゃんが謝ることじゃないよ。返すのも悪いし、いただいたら? ……ちょっと、手、洗ってくるね」
そう言って、彼女は逃げるように洗面所へ消えてしまった。
「……あー……」
僕は頭を抱えた。
せっかくのバレンタインが、僕の無自覚な行動のせいで台無しになりかけている。
しばらくして洗面所から戻ってきた美絵は、何事もなかったかのような笑顔で、手作りのカラフルなトリュフをくれた。
本当に嬉しくて、最高に美味しかった。
必死にその気持ちを伝えたけれど、彼女の目には、大石の件をフォローするためのオーバーリアクションに映っていたのかもしれない。
なぜなら、美絵はどこか無理をして明るく振る舞っているように見えたからだ。
部屋の隅、見えない場所に移動させたあの水色の箱について、その夜、二人が触れることはなかった。




