第55話
静まり返った部屋の中、重なった心音を全身で感じていた。
しばらくの間、強く抱き合っていたあと。
祥ちゃんはゆっくりと身体を離し、私の瞳をじっと見つめた。
(……どうしよう。一体、何から始めたらいいんだろう……?)
経験値も知識もゼロに等しい私は、頭の中でぐるぐると考えを巡らせていた。
(……キスから? それとも言葉?)
「…………」
「…………」
張り詰めた空気と熱い視線に、思わず身を固くする。
しかし、彼の口から出たのは、思いもよらない一言だった。
「……コンビニとか、行く?」
「……え?」
顔を上げ、ぽかんとしながら「あ……ハイ」と間抜けな返事をしてしまった。
◇
祥ちゃんの気遣いで、夜のコンビニへとやってきた。
冷たい外気に触れたことで冷静になり気づいたけれど、私は今日、メイク落としや化粧水など、お泊まりに必要なものを一切持ってきていない。
緊張しすぎて、その準備についてはすっぽりと抜け落ちていたのだ。
やや申し訳なさそうに「シャンプーも、男物しかなくて……」と言われたけれど、あの香りの元になっていると思うと使ってみたくなり、シャンプーはトラベル用を買わずに彼のものを借りることにした。
陳列棚を回る彼は、いつもよりずっと静かで、どこか落ち着かないような、けれど柔らかい雰囲気を纏っている。
彼が持つ買い物カゴには、追加の麦茶と、私が好きなメーカーのアイスティー、それに明日の朝ごはん用の食パンが入っていた。
私が手にしたスキンケア用品も同じカゴに入れて、そのまま彼が支払いをしてくれた。
「あの、私のものもいっぱい買ったし、お金……」
コンビニを出て財布を取り出そうとすると、祥ちゃんは「美絵も前夜祭のもの、たくさん用意してくれたし」と微笑みながら優しく制した。
◇
部屋に戻って時計を見ると、二十三時半を回る前だった。
「お風呂ためるから……先、どうぞ」
少し裏返った声をごまかすように、祥ちゃんがコホンと咳払いをした。
その緊張が私にもうつってしまい、「あ、ハイ……」とまたぎこちない返事をして、洗面所へ向かった。
鏡の前でメイクを落としながら、ふと、手を止める。
(あ……すっぴんになると、子供っぽく見えるかな……)
中学校の同級生である彼には、化粧をしていない顔を知られているわけだけど。
大学生になった今、素顔を見せるのはなんだか恥ずかしい。
そして、いろいろなことが気になり始める。
私が何か気をつけることはあるんだろうか。
全部任せていいのかな……。
このあと祥ちゃんがお風呂に入ってるときに、またスマホで検索しようかな……。
でも、その間に髪を乾かしておかなきゃいけない。
そういえば祥ちゃんは髪が短いけれど、ドライヤーなんて持っているのだろうか。
頭の中でそんな考えが次々に渦巻いて、落ち着かない。
お湯を張ってくれた湯船に少しだけ浸かったものの、自分の家とは勝手が違うこともあり、ちょっぴり手間取ってしまった。
(あ! 0時ぴったりにプレゼント渡すんだから、早く出なきゃ……!)
時間のことを思い出した私は、慌ててお風呂から上がった。
脱衣所に彼が置いてくれていた大判のバスタオルで髪を拭く。
その瞬間、シャンプーと柔軟剤の香りが混ざり合った。
たしかに、いつも彼から香るものに近い。
同じ香りに包まれていることに、たまらない幸福感をおぼえる。
ドキドキするけれど、同時に心がほぐれていく感覚もあった。
パジャマの代わりに借りたのは、祥ちゃんのネイビーのスウェットだ。
当然ながらダボダボで、袖も裾も余っている。
鏡を見て考える。
(なるほど、これが世に言う『彼服』というやつか……)
世の中的には男子をキュンとさせるアイテムらしいけれど。
私が着ると、大人の服を間違えて着ちゃった子供のように、ちんちくりんに映らないだろうか。
心配になりながら、リビングに出ていった。
「……お風呂、ありがとう」
祥ちゃんは私を一目見るなり、すぐに目を逸らして「……うん」とだけ短く答えた。
耳がほんのりと赤い。
「あの……ドライヤーあったら、借りてもいい?」
「あるよ」
彼は脱衣所へ向かい、洗面台の下から黒いドライヤーを取り出して渡してくれた。
「俺、入ってくるから。のんびりしてていいよ」
祥ちゃんはそのまま奥に戻っていった。
(よし。先に髪を乾かして、今のうちにネットで……)
そう思っていたのに。
私の髪が乾き切る前に、ガチャッとドアが開いた。
「……速いっ!?」
思わず声が出た。烏の行水にもほどがある。
「あ、ごめん。急がなくていいから、終わったらそれ貸して」
そう言って、ドライヤーに目を向けた。
首にバスタオルをかけた祥ちゃんは、濡れた髪のまま冷蔵庫へ直行し、麦茶の二リットルペットボトルを取り出した。
そして口を付けずに、直接自分の喉へと流し込んでいる。
(お風呂上がりの祥ちゃん……カッコいいし、なんだかあどけなくて可愛い……)
私はドライヤーの手を止め、その喉仏が動くのをじーっと見つめてしまった。
「……あ。つい、いつもの癖で」
私の視線に気づいた祥ちゃんは、飲み方をジロジロ見られていたと思ったのか、気恥ずかしそうにして、私のコップにも麦茶を注いでくれた。
髪を乾かし終え、コードを巻きながら思いついた。
「……祥ちゃんの髪、乾かしたいな」
「えっ? ……じゃあ……お願いします」
少し驚きつつも了承してくれた彼はフローリングに座り、私はソファベッドに腰掛けた。
人の髪を乾かすのは初めてだ。
スイッチを入れ、そーっと手ぐしで整えながら温風を当てていく。
指に触れる祥ちゃんの髪は、私のものとは全然違う。
芯がしっかりとしていて、一本一本が太くて黒い。
けれど毛先にはちょっと丸みがあって、柔らかい。
しっかりとした男らしさを感じながらも、おとなしく乾かされている少し丸まった背中のギャップに、愛おしさが込み上げてきた。
丁寧に乾かし終えると、時計の針は日付が変わる五分前になっていた。
「ありがと。……これ、ちょっと動かすね」
祥ちゃんが立ち上がり、ローテーブルを端に寄せて、ソファベッドの背もたれを倒す。
あっという間に平らなベッドの形になった。
「……へえっ。こう変わるんだー」
感心する私を隣に座らせ、二人で壁に背中を預けて時計を見つめる。
チクタクと進む秒針の音が、部屋に響く。
5、4、3、2、1――。
0時ちょうどになった瞬間、祥ちゃんの首にギュッと抱きついた。
「祥ちゃん、誕生日おめでとうっ。 ……一番に言えた!」
嬉しがる私に、彼は「ありがとう」と囁いて、軽いキスを落とした。
「……来年の私の誕生日は、祥ちゃんに一番に『おめでとう』って言われたいな」
私の誕生日は、四月の上旬だ。
大学に入って東京で再会した時にはもう過ぎていて、すでに十九歳になっていたのだ。
「……もちろん」
私の髪を撫でながら微笑む彼の目尻が、優しく下がる。
私は一度ベッドを降りて、自分のトートバッグから綺麗にラッピングされた箱を取り出した。
「はい、これ。誕生日プレゼント……です」
「うわー……ありがとう。開けていい?」
私がこくりと頷くと、彼は丁寧に包装を解き始めた。
中から現れたのは、グレーのケーブル編みマフラーだ。
「祥ちゃん、意外と寒がりだから。よかったら使って」
「……ありがとう。 使うのもったいない」
マフラーの感触を確かめながら、感激したような微笑みを見せた。
「えー? 使ってよ」
「もちろん使うけどさ。なんか……誕生日になる瞬間を美絵と過ごせて、お祝いしてくれて、こんなプレゼントももらえるなんて。中学生の俺が知ったら、絶対ひっくり返る」
そう言って笑ったあと、彼はまっすぐ私を見つめた。
「……大切にするね」
その低くて落ち着いた声が、マフラーだけではなく、『美絵のことを大切にするね』というふうにも聞こえて、じんわりと広がるあたたかい気持ちを噛み締めた。
日付が変わり、プレゼントも渡し終え、だんだんと部屋の時間が止まっていくような錯覚に陥る。
ベッドの上に並んで座ったまま、祥ちゃんが私の両手をそっと包み込んでくれた。
そして、触れるだけのキスが、幾度となく大切に落とされる。
ゆっくり、ゆっくりと、深い海の中に潜っていくような感覚。
最も深いところまでいくと、足もつかず、宙に浮いたような状態になってしまった。
息継ぎの仕方もわからず、必死に彼に掴まろうとするのに、波にさらわれるように、何度も遠くに流されそうになる。
けれどそのたびに、彼が私の名前を呼ぶ低く優しい響きと、あたたかく大きな手のひらが、私を安全な場所へと引き戻してくれた。
――そんな満ち引きを繰り返して。
やっと彼の腕の中という、世界で一番安心できる場所に辿り着くことができた私は、その温もりに包まれながら、すうっと眠りについた。




