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第53話

「……お先に失礼します!」


 そそくさとタイムカードを押したあと、カウンター以外の電気が消され薄暗くなった店内で、レジ点検をしている店長へ挨拶する。


「はーい! お疲れさま」


 笑顔を返してくれた店長に会釈をすると、バックルームに駆け込み、そのまま奥の狭い更衣室へ飛び込んだ。


 急いでエプロンを解き、ブラウスのボタンを弾くように外す。

 更衣室には、店内から流れ込んできた焙煎された珈琲豆の深い香りと、キャラメルシロップの甘ったるい匂いが充満している。

 それらが染み付いた制服をロッカーへ押し込み、私服の薄いニットへと慌てて腕を通した。


「なんだ? 彼氏でも迎えにきてんのか?」


 光の速さで更衣室から出た瞬間、かけられたその声に、肩がビクッと跳ねる。

 同じ遅番シフトだった柳くんが、パイプ椅子に浅く腰掛けながら、呆れたような、それでいてどこか面白がるような目で私を見ていた。


「おっ……お疲れ様でした!」


 完全に図星を突かれた私は、熱を持った頬を隠すようにトートバッグを肩にかけ、逃げるようにバックルームを飛び出した。


 バタン、と勢いよく閉めた扉の向こうから、「わかりやすっ」という柳くんの低い笑い声が聞こえてきて、さらに足が速くなる。



 裏口から外へ出ると、十一月下旬の冷気が、火照った顔を少しだけ冷ましてくれた。

 はあっ、と吐き出した息が、夜の輪郭に溶けていく。


 視線を動かすとすぐに、オレンジ色の街灯の真下に、愛しい姿を見つけた。

 厚手のネイビーのジャケットを羽織っている。


 小走りで駆け寄ると、コンクリートを踏む音に気づいた彼が顔を上げる。


 寒さのせいか、やや赤くなった鼻先。

 いつもの穏やかな瞳が、私を捉えた。


「お疲れ」


「ごめんね、わざわざ迎えにきてもらって……! 寒かったよね!?」


「いや、全然」


 祥ちゃんの吐く息が、優しい声とともに夜風に流れる。

 彼の視線が、私の肩に掛かっている大きめのトートバッグへと移った。


「それ、重くない? 持つよ」


 ためらいなくスッと伸ばされた手を、慌てて遮った。


「だ、大丈夫! 大きいだけで、軽いから!」


「え……そう? 」


 膨れたバッグの中には、来る途中のコンビニで買ったお菓子やジュースの他に、ちょっとした遊びグッズ、そして――綺麗にラッピングされた箱が隠されている。

 明日、彼の誕生日に渡すはずのプレゼント。

 明日のデートの待ち合わせに持って行けばいいものを、わざわざ今夜持ってきた理由はひとつだ。


(もし……もし、今日このまま、明日まで一緒にいることになったら……なんて)


 そんな下心というか、はち切れんばかりの期待がここに詰まっているなんて知られたら、恥ずかしくて顔から火が出てしまう。


 この先のことを、まだ何もわかっていない私。

 正直、ほんの少しだけ不安や緊張はある。

 けれどそれ以上に、彼との『向こう側』を知りたくなっていた。

 もっと彼を大好きになりたいし、彼にも、私のことをもっと大好きになってほしい。


 祥ちゃんはいつも、私が歩きやすいスピードで歩いてくれる。

 けれど今日は私の方が、彼の歩幅にせっせと合わせていた。

 足早に夜道を歩きながら、必死に平常心を装おうとバイトの話をした。


「今日ね、クリスマス限定のラテがすごく出て……それでね……」


 口調も、自分でもわかるくらい速くなっている。

 遅番の後、もう遅い時間に彼の家へ遊びに行くという初めてのシチュエーション。

 さっきからずっと、気持ちが上ずったままだ。


 ◇


 アパートに着き、祥ちゃんがガチャリと鍵を開ける。

 二人きりで過ごすのは私の部屋が多いため、彼のところにお邪魔するのは今日でまだ三回目。


 重たい音とともにドアが開くと、真っ暗な玄関の奥からふわりと『祥ちゃんの匂い』が届いた。

 冬の空気と入れ替わるように、私を包み込む。


 爽やかなマリン系のような、それでいて日向のシーツのようなあたたかさも混じった、深呼吸したくなる匂い。


 付き合う前は香水をつけているのかと思っていたけれど、最近聞いたら「柔軟剤とシャンプーの匂いじゃないかな」と笑っていた。

 生活感が絶妙に混ざり合ったこの香りを感じるだけで、なんだかドキッとしてしまう。


 祥ちゃんの部屋は1Kで、すっきりとしている。

 黒のソファベッドに、スチールの脚がついた折りたたみのローテーブル。

 向かいには小さなテレビ台が置かれ、隅にはアウターを掛けるシンプルなポールハンガーが立っている。

 モノクロで統一された、必要最低限のものしかない男の子らしい空間。


 私はローテーブルの前で膝立ちになりながら、バッグからお菓子やジュースをせっせと並べ始めた。


「麦茶、いる?」


 キッチンから顔を出した彼が、冷蔵庫の扉に手をかけながら尋ねてくる。


「いる!」


 元気よく答えた後、ハッとして、弾んだ声を投げかけた。


「あ! 祥ちゃん、麦茶持ってきてくれたあとでいいから、目つぶって!」


「え? 目?」


 彼は不思議そうに瞬きした。


「うん! 薄目開けちゃダメだからね」


 そう念を押すと、彼は小さく吹き出し、「わかったよ」と了承してくれた。

 グラスに注がれる麦茶の、トクトクという音が聞こえてくる。


 コップを運んできてくれた祥ちゃんが、テーブルの前で目を閉じたことを確認すると、ワクワクしながらバッグの奥を漁り始めた。

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