第51話
暖房の風が埃を巻き上げているのか、大教室には乾いた匂いが充満している。
外の冷気と室内の熱で、大きな窓ガラスはうっすらと結露している。
史学部の必修である、イギリス史学の講義。
開始のチャイムが鳴ってから十分が経過しても、教授は一向に姿を見せない。
階段状になった座席を埋める、百人近くの学生たちのざわめきは、この空間を満たすホワイトノイズとなっていた。
隣の席では、国際学部だけれどこの講義を履修しているいずみが、プリントの端にペンで無意味な丸をぐるぐると描いている。
私は手元のノートの真っ白なページを見つめながら、ふと、昨夜の冷たいドアの金属音と、一人きりになった部屋の広さを思い出していた。
胸の奥に、じわりと重たい鉛のような感情が広がる。
「……はあ」
「……ふう」
重なった二つのため息に、私といずみは同時に肩をビクッと跳ねさせ、顔を見合わせた。
コンマ一秒のズレもない見事なシンクロに、お互い目を丸くしたあと、思わずふふっと吹き出してしまった。
「なに、今の」
「美絵もため息? どうしたの、悩み事?」
いずみがペンを置き、小首を傾げてこちらを覗き込んでくる。
オレンジ色のカーディガンから、彼女がいつもつけている香水の、シトラス系の爽やかな香りが微かに漂う。
「……うん。いずみこそ、どうかしたの?」
「私? 私は……まあ、あとでいいや。美絵から先! 祥太郎くんと、なんかあった?」
すぐに恋人の名前を導き出され、彼女が鋭いというよりは、自分がわかりやすすぎるのではないかと苦笑する。
私はぽつりぽつりと、絡まった糸を解くように話し始めた。
「なんかあったわけじゃないんだけど……自分が嫌になっちゃって」
「えっ? なんで?」
「うん。祥ちゃんのことが……その……好きすぎて。最近、すごく寂しがり屋になってる気がして。一緒にいるときは幸せなのに、バイバイした直後からもう辛くて。もっと長く一緒にいたいとか、私と同じくらい重たい気持ちでいてほしいとか、そんなことばっかり考えちゃう。完全に、面倒くさい女になってる」
自嘲気味に笑うと、いずみは丸い目を細め、私の背中をさするようにポンッと優しく叩いた。
「美絵ー。それ、祥太郎くんが知ったら泣いて喜ぶやつだよ」
「えっ?」
「傍から見ててもさ、祥太郎くんが美絵のことめちゃくちゃ大好きなの、痛いほど伝わってくるもん! あの人、美絵のこと見る時だけ、すっごい甘い顔してるよ? 知らないでしょ」
「今度盗撮しちゃおっかな」とケラケラ笑ういずみの言葉に、頬が熱くなる。
「祥太郎くんの気持ちが小さいわけないよ! ただ、美絵を困らせないように、なんとか理性を働かせてるだけだと思うな」
そう言ってから、いずみは少しだけ表情を曇らせた。
「でも……自分の気持ちのコントロールが難しいのは、よくわかる」
いずみは手元のペンを弄りながら、視線を机に落とした。
「……こういう話、美絵が苦手だったらすぐに言ってね?」
前置きをしてから語られたのは、実は文化祭のあとトントン拍子で付き合い始めることになった、バイト先の先輩とのことだった。
「私さ、高校時代の元彼とは、友達の延長みたいな感じだったの。一緒に帰って、手を繋ぐくらいで……。でも今の彼氏は、進むテンポがすっごく速い気がして」
いずみは不安そうに眉を下げる。
「付き合って二週間なんだけど……なんか、求められるペースについていけなくて。大学生って、こんなものなのかな? 歳が二つ違うだけで、感覚も違うのかなって……ちょっと戸惑ってるんだよね」
経験値がゼロに等しい私は、どう答えていいかわからず、ただ「なるほど……」と頷くことしかできなかった。
「……ちょっと、調べてみよ」
鞄からスマホを取り出し、机の下でこっそりと検索画面を開いた。
『大学生 カップル 進展 ペース』
いくつかの恋愛コラムやアンケート記事をスクロールしていく。
画面の青白い光が、私たちの真剣な顔を照らす。
「ええと……『大学生カップルが最後のステップまで進むのは、付き合ってから二〜三か月が多い』……」
「ほらー! やっぱり早いよ、うちの彼氏!」
いずみが声を潜めながらも、頭を抱えて机に突っ伏した。
「どうしよう。彼のことはもちろん好きなんだけど、不安もある。自分の気持ち、ちゃんと伝えたほうがいいのかなー。でも、嫌われたらどうしよう……うーん……」
唸り声を上げる彼女の背中を、今度は私が優しくさする番だった。
しばらく机に額を付けていたいずみは、ふと顔の向きを変え、少し遠慮がちな上目遣いで私を見た。
「……美絵と祥太郎くんは……まだ?」
「えっ!?」
予想外の矢印の向きに、声が裏返る。
「ま、まだだよ! 私たちなんて、この前ようやく……えっと……だから、うん」
しどろもどろになる私を見て、いずみは何かを計算するように宙を見つめた。
「もうすぐ付き合って二か月とかだよね。一般的なデータに当てはめると……じゃあ、そろそろなのかな?」
「そ、そうなの……?!」
彼女が急に「あ、そういえば!」と、手をポンッと叩いた。
「こないだ、サークルの部室でまさとんが騒いでなかった? 『もうすぐ祥太郎の誕生日だ』って」
「うん……プレゼント、もう買ったよ」
やや照れながら頷くと、いずみの顔がパアッと明るく輝いた。
「キャーッ! 絶対、そういう特別なイベントの時に何か起こるじゃん!」
パシパシッ! と、遠慮のない強さで私の背中を叩く。
「ちょっといずみ……声大きいから……!」
周囲の学生たちの視線をごまかすように縮こまりながら、急に早鐘を打ち始めた自分の心音を聞いていた。
祥ちゃんの誕生日。
二人きりでお祝いする、特別な日。
正直なところ、私にとっての祥ちゃんは『究極の安全地帯』だ。
彼といて、怖い思いをするとか、そんな不安は一切ない。
彼はいつだって私を最優先に考え、大切に扱ってくれる。
でも――。
いずみとの会話でリアルな『その先』を意識してしまった途端、私の内側に、これまで経験したことのない新しい種類の緊張感がふわりと舞い降りていた。
安全地帯にいるはずなのに、足元が少しフワフワとするような、甘い浮遊感。
「あ、やっと来た」
いずみの声で顔を上げると、前方の扉から、分厚い資料を抱えた教授が申し訳なさそうに苦笑いしながら入ってくるのが見えた。
教室のざわめきが、潮が引くようにスッと静まる。
ノートにペンを走らせる準備をしながら、彼に渡すプレゼントの箱を思い浮かべ、密かに深く息を吸い込んだ。




