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第39話

「昨日の居酒屋さん、美味しかったね」

「安くてうまかったっすねー」


 講義室で二人の会話を聞いた瞬間。

 私の中でずっと燻っていたドキドキが、サーッと冷やされていくのを感じた。


 まるで、鮮やかだった世界の色が、一瞬にしてモノクロームに塗り替えられていくみたいに。


 彼は、真希さんたちと飲みに行ってたんだ。

 あんなふうに楽しそうに笑い合って。


 私は、この一週間。抱きしめられた時のことを、ずっと考えていた。

 祥くんはどういう気持ちだったんだろうって、部屋で頭を抱えたり。

 腕の強さや、あたたかさを思い出しては、何度も舞い上がって――。


 恋愛経験がなくて子供っぽい私にとっては、とてつもない大事件だった。

 でも、いつも落ち着いていて大人っぽい彼にとっては、勢いか何かの、なんてことない出来事だったのかもしれない。


 私が一人で悶々と悩んでいる間にも、こうして真希さんと一緒にいたんだ。


『もしかしたら、彼も私のことを好きなのかもしれない……』


 そんなふうに期待していた自分が、急にひどく滑稽に思えてきた。


 目の縁から、じわじわと水分が湧き上がってくる感覚がした。

 真希さんに声をかけられても、祥くんに「話さない?」と提案されても。

 喉が締め付けられ、何も返すことができない。


 ここにいたら、惨めな姿を見せてしまう。

 弾かれたように背中を向け、講義室を飛び出した。



「……っ、美絵、ちょっと待って!」


 後ろから呼び止められる。


(追ってこないで。もう、期待させないでよ……)


 そう思えば思うほど、悲しさが込み上げてきて、どんどん涙が滲んでくる。


 人けのない裏庭まで逃げたけれど、運動神経のいい彼にはすぐに追いつかれてしまった。


 肩を掴まれ、振り返る。

 彼には見せたくない、ひどい顔をしている自覚があった。


 私の涙を見た彼は、驚いて目を見開く。


「…………」

「…………」


 サラサラと音を立てて風になびく黄色の葉たちとは対照的に、私たちの間には重たい空気が流れる。


「えっと……この前、変なことして、ごめん」


 彼から出たのは、そんな曖昧な謝罪だった。


 必死に謝る姿を見て、心が痛む。

 何かの間違いだったのかな。

 もしかして……『勘違いさせてごめん』ってこと?

 私みたいに、胸が苦しくなるような嬉しい気持ちは、彼にはなかったのかな。

 もし好きだったら、あんなことがあった後は、私と同じように浮かれたりするはずだよね……。


 悪い考えばかりが頭を支配していく。


「ごめん……」


「謝らないでよ……」


 好きだから、泣いているのに。

 謝られると、私の抱えている恋心が否定されたみたいで、余計に涙が止まらなくなってしまった。


「本当にごめん……どうしたら止まる? 俺、なんでもするから……」


 切羽詰まったような声。

 涙を拭おうとしたのか、彼の人差し指がそっと頬に触れてきた。


 一週間ずっと忘れられなかった――優しくて、あたたかい体温。


 それに触れた瞬間、私の中にあった悲しさ、苦しさ、そして彼への想いが、限界を超えて決壊した。


 もう、隠しきれない。

 あれは気の迷いだったと、忘れてほしいと言われてもいい。



「……好き」



 濡れた頬に彼の温度を感じながら、私はついに、溢れる自分の気持ちを声に出していた。


 ◇


 ――『好き』。


 その二文字が鼓膜を震わせた瞬間。

 僕の脳は、ありとあらゆる処理を強制終了した。


「…………」


 呼吸の仕方すら忘れ、完全にフリーズする。


 風が枯れ葉を転がす乾いた音だけが、不自然なほど大きく響いていた。


 直前まで、彼女は深い悲しみと怒りの入り混じった表情で、大粒の涙を流していた。

 どちらかといえば、僕の身勝手な行動を責め、拒絶している状況だったはずだ。


『好き』って……聞き間違いだろうか。

 都合のいい幻聴か?


 でも、小さな唇から紡がれた音は、たしかにそう聞こえた。


「……え? 今、なんて……」


「…………っ」


 掠れた声で聞き返すと、美絵はハッとしたように手を止め、拗ねたようにプイッとそっぽを向いてしまった。


 赤く染まった耳たぶと、ツンと尖らせた横顔。


(可愛い……)


 思わず見惚れそうになる自分に(いや、今はそうじゃなくて)と心の中で激しくツッコミを入れる。


「ご、ごめん。今、『好き』って聞こえた気がしたんだけど……」


 恐る恐る尋ねると。

 彼女は横を向いたまま――細い人差し指で僕を指差した。


(…………え……)


「……美絵、俺を、好きなの……?」


 指差したままの彼女は、やや怒ったように「……好きじゃなかったら」と切り出した。



「好きじゃなかったら、名前で呼んでとか、わざわざ野球観に行きたいとか……言うわけないじゃん……ばか」



 彼女が見せてきた、照れた顔、無防備に甘える顔、恥ずかしそうに俯く顔。

 これまでの言葉や行動のピースが、音を立てて一つひとつはまっていく。


 友達としてではなく。同郷の同級生としてでもなく。

 異性として、僕を――。


 脳がやっと状況を理解できたその瞬間。

 足元から頭のてっぺんまで、雷に打たれたような強烈な痺れが駆け抜けた。


 勘違いでもなく、夢でもないのか?

 あの彼女が、僕を。

 僕のことが……好きなのか。


 歓喜、安堵、そして身勝手な行動により泣かせてしまった自分自身の愚かさへの猛烈な反省。

 色んな感情がごちゃ混ぜになって押し寄せ、視界がぐらりと揺れた。


 何も言わず、ただ立ち尽くす僕の様子をチラリとうかがった美絵は、「…………!」と目を丸くして驚いた。


「祥くん……顔、真っ赤……」


 慌てて右腕で自分の顔を覆い隠し、横を向いた。


「……見ないで」


 今、どんなだらしない、もしくは興奮した顔をしているのか想像もつかない。


「…………」


「え、ちょっと……」


 すると、顔を覗き込もうとしているのか、彼女が僕の腕をどかそうと、指をかけてきた。


「……ちょっと!」


 それを止めようと、咄嗟に細い手首を掴んだ。


 その拍子に、正面からバチリと視線が絡み合う。


 少しだけひんやりとした彼女の体温。

 対照的に、火を噴きそうなほど熱い自分の顔。


 涙が残る瞳と至近距離で見つめ合い、胸の奥が痛くなるくらい鼓動が速まる。


(あ……言わなきゃ)


 僕が何かを伝えようとしていることを察したのか、その瞳が不安そうに揺らぐ。

 彼女の手を優しく下ろし、まっすぐに見つめて、深く息を吸い込んだ。



「俺も、好き。……すごく、好き」



 秋の冷たい空気に溶かすように。

 ずっと閉じ込めていた熱のすべてを、言葉に乗せて伝えた。

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