第38話
あの日から、ちょうど一週間が経った。
季節は確実に歩みを進めていて、朝夕の風にはもう、夏のまとわりつくような湿気は残っていない。
けれど、部屋の窓から差し込む秋の空気を何度吸い込んでも、私の胸の奥につかえた熱い塊は、少しも冷めてはくれなかった。
一週間、祥くんとは一度も会っておらず、メッセージの通知すら鳴らなかった。
夜、薄暗い部屋のベッドの中で、何度も寝返りを打つ。
目を閉じれば、エントランスの街灯の下で強引に引き寄せられたあの瞬間の、強い腕の感触が蘇る。
シャツ越しに伝わってきた彼の胸のあたたかさ、鼻先をかすめた柔軟剤と秋の夜風の匂い、そして、私を閉じ込めるように鳴っていた彼の早い心音。
(なんで、抱きしめたりしたの……?)
自分から理由を尋ねる連絡をしようかと、何度もトーク画面を開いては文字を打ち、結局消すという作業を繰り返していた。
なんて聞けばいいのか、全くわからない。
こんなパニック状態の気持ち、いずみにもまだ相談できていなかった。
(もしかしたら、祥くんも私のことを好きで……?)
そんな甘い期待が頭をよぎっては、(でも、もし気の迷いだったら?)という不安に押しつぶされる。
ひとりでぐるぐると予想したり悩んだり、抱きしめられた時のドキドキを思い出しては顔を赤くしたり。
ろくに眠れない日々が続いていた。
◇
今日は、十月の文化祭に向けたサークルの準備日。
キャンパスに向かう電車の中でも、足取りはひどく重かった。
作業があるなら、きっと彼もいるはずだ。
会ったらどんな顔をすればいいだろう。
「この前はびっくりしたよ」と笑って流すべき?
それとも……。
正解の出ない問いと格闘しているうちに、指定された講義室に着いたのは、集合時間ギリギリになってしまっていた。
「ご、ごめん! 遅くなって……」
入り口付近で作業をしていたいずみに小声で謝ると、「全然大丈夫よーん」と明るい声が返ってきた。
作業用に借りている講義室の中は、段ボールの紙の匂いと絵の具のツンとした匂いが混ざり合い、みんながワイワイと作業を進める喧騒で満ちていた。
視線を泳がせると、部屋の奥のほうで、こちらに背中を向けてポスターの色塗りをしている大きな背中を見つけた。
(……祥くんだ)
心臓が、トクンと跳ねる。
(……まずは、普通に話しかけてみよう)
私は小さく深呼吸をして、ギュッと手を握りしめ、勇気を出して彼の背中へと近づいていった。
声が聞こえるくらいまで近づいたが、作業に集中しているのか、彼はまだこちらに気づかない。
その隣には、真希さんがしゃがみ込んでいて、絵筆を動かしながら彼と会話をしているのが見えた。
「昨日の居酒屋さん、美味しかったね」
「安くてうまかったっすねー」
「沙織、飲みすぎて、はしゃぎすぎてたよね。また行こっ!」
「いいっすね。うちのサークルの行きつけにしましょう」
楽しげに笑い合う二人の声。
私の足は、床に縫い付けられたようにピタリと止まってしまった。
「あ、美絵ちゃん! お疲れ〜」
先に私に気づいた真希さんが、屈託のない笑顔で声をかけてくれた。
◇
「あ、美絵ちゃん! お疲れ〜」
隣で筆を洗っていた真希さんのその声に、僕は心臓を鷲掴みにされたようにビクッと肩を揺らした。
振り返ると、一週間ずっと頭から離れなかった彼女がそこに立っていた。
「あっ……お疲れ……」
あの日、自分の嫉妬と衝動を抑えきれずに彼女を抱きしめ、気の利いた言葉一つ言えないまま逃げ帰ってしまった。
その後、どう連絡していいかわからず、激しい自己嫌悪に陥ったまま一週間が過ぎてしまっていたのだ。
目の前にいる彼女に、何を言えばいいのか。
思考が空回りして、焦りが全身を巡る。
今日会うことはわかっていたのだから、きちんと謝罪の言葉を決めておくべきだった……。
無計画な自分を、心底恨む。
「……あのさ、ちょっと外で話さない……?」
慌てて立ち上がり、周囲の目を気にして小声で誘ったつもりだった。
しかし、美絵は僕と目を合わせることもなく、何も言わずにくるりと背を向けると、足早にその場を立ち去ってしまった。
「えっ……?」
伸ばしかけた手が、空を切る。
「あれ? 美絵ちゃん、どうしたんだろ」
真希さんも不思議そうに首を傾げている。
美絵の小さな背中は、そのまま講義室のドアを出ていきそうだった。
「……っ、すいません。ちょっと外します」
僕は筆を置き、急いで彼女の後を追いかけた。
入り口の近くにいたいずみも、様子のおかしい彼女のことを、心配そうに目で追っていた。
廊下に出ると、彼女はすでに階段を降り、人けのない裏庭の方へと向かっていた。
「……っ、美絵、ちょっと待って!」
秋の冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと音を立てる裏庭。
彼女は足を止めず、振り向こうともしない。
なんとか追いつき、ためらいながらも、その華奢な肩にそっと手をかけた。
ゆっくりと振り向いた美絵の顔を見て、僕は息を呑んだ。
今まで僕に向けたことのないような、深い悲しみと怒りを帯びた表情。
その大きな琥珀色の瞳には、今にも溢れ落ちそうなほどいっぱいの涙が溜まっていたのだ。
「……なに?」
震えている、冷たい声。
「えっと……この前、変なことして、ごめん」
自分の語彙力のなさを呪いながら、なんとか謝罪の言葉を絞り出す。
「変なことって?」
「……付き合ってもないのに、あんなこと」
僕の言葉に、美絵はきつく唇を噛んだ。
「……なんで、したの?」
「……自分でも、わからなくて」
正直な気持ちだった。
あの時、嫉妬に駆られて、ただ彼女を自分だけのものにしたいという衝動に負けた。
それをどう言葉にしていいのか、わからなかった。
「……わからないなら、しないでよ」
ポロリ、と。
彼女の大きな瞳から、透明な雫がこぼれ落ちた。
その瞬間、胸の奥を鋭い刃物でえぐられたような激しい痛みが走った。
――泣かせてしまった。
僕の身勝手な行動が、あの優しい彼女をここまで傷つけ、涙を流させてしまったのだ。
それほど嫌だったのかもしれない。
嫌われて当然だ。
当然の報いなのに、彼女の涙を前にすると、激しい自己嫌悪で息ができなくなる。
「ごめん……」
情けない声しか出ない。
「謝らないでよ……」
ポロポロと、堰を切ったように彼女の頬を涙が伝う。
自分の大好きな子が、自分のせいで泣いている。
その事実がたまらなく苦しくて、僕はすがるように口を開いた。
「本当にごめん……どうしたら止まる? 俺、なんでもするから……」
切なさと申し訳なさで、胸が張り裂けそうになる。
たとえば……彼女が「もう二度と関わらないで」と言うのなら、そうする。
僕にとっては耐え難いほど辛いことだけれど、彼女を泣かせたり苦しめるよりはマシだ。
彼女は小さな両手で、交互に、流れる涙を必死に拭っていた。
僕は思わず、その濡れた頬に手を伸ばす。
彼女の涙を拭いたくて、人差し指でそっと、彼女の柔らかい頬に触れた。
その瞬間。
下を向いたままの美絵の唇から、微かに震える声が漏れた。
「……好き」
――耳を疑った。
風の音に掻き消されそうなほど小さな、けれどはっきりと輪郭を持ったその言葉に、僕の思考は完全に停止した。




