第37話
ふわりと包み込まれた暗闇の中で、時間の感覚が溶けていく。
それは、ほんの一瞬の出来事のようにも、永遠に続く長い時間のようにも感じられた。
耳に届くのは、少しひんやりとした秋の夜風が街路樹を揺らす微かな葉擦れの音と、自分の耳の奥で狂ったように鳴り響く鼓動だけ。
いや、違う。
私を抱きしめる彼の胸の奥からも、同じように早く、力強い心音が伝わってくる。
鼻先をかすめるのは、秋の冷たい空気と混ざり合った、彼の清潔なシャツの柔軟剤の匂い。
そして、ほんの少しだけ微かに感じる、男の人特有の体温の匂い。
最初は驚きで真っ白になっていた頭が、秒針が進むにつれて徐々に現実の輪郭を帯びてくる。
(私、今、好きな人に……抱きしめられてる……)
その事実を明確に意識した途端、全身の血液が沸騰したように熱くなり、心臓が口から飛び出してしまいそうなほどドキドキが加速し始めた。
このままじゃ、私のうるさい心音まで彼に伝わってしまう。
息をするのさえ苦しくなってきて、私は震える声で、ようやく喉から音を絞り出した。
「あの……っ」
その小さな声が、魔法を解く呪文だったかのように。
彼の身体がビクッと大きく強張り、ハッとしたように私からパッと腕を離した。
冷たい夜の空気が、二人の間に急に流れ込んでくる。
「……ご、ごめん!」
後ずさりした彼の声は、ひどく上ずっていた。
私も、熱を持った身体を持て余し、ドキドキしすぎて言葉が出てこない。
「…………」
「…………」
エントランスの街灯の下、気まずい沈黙が降り下りた。
虫の音だけが、やけに大きく響いている。
頑張って顔を上げ、彼の様子をうかがうと、そこには今まで見たこともないような、ひどく焦燥し、狼狽えきった顔があった。
普段の穏やかで余裕のある彼からは想像もつかない、切羽詰まったような表情。
彼は何かを言いかけては口をつぐみ、私から視線を逸らして、ギュッと拳を握りしめた。
「……ごめん。じゃあ、また」
それだけを早口で言い残し、彼は踵を返すと、足早に夜の闇の中へ遠ざかっていってしまった。
(あれ……行っちゃった……)
数分間、その場で立ち尽くしていたが、しばらくして呆然としながらエレベーターに乗り、自分の部屋に向かった。
ガチャリ、と重たい金属音を立てて鍵を閉める。
足が絡まりながら靴を脱いだ。
部屋の電気をつけることも忘れたまま、私はリビングの中央にある小さなローテーブルの前にへたり込み、そのまま正座の姿勢で固まった。
窓の外から差し込む街灯の薄い光だけが、ぼんやりと部屋を照らしている。
「……え?」
誰もいない部屋で、間の抜けた声がぽつりとこぼれ落ちた。
(なんで、抱きしめられたの?)
慰め?
いや、私が落ち込んでいたわけじゃない。
(じゃあ……なに? どういう意味?)
今まで、映画や小説の、物語の中でしか知らなかったシチュエーション。
圧倒的な経験不足のせいで、彼のあの行動の理由も、最後の焦ったような表情の意味も、全く処理しきれない。
腕の中に閉じ込められた時の、圧倒的な力の差と、包み込まれるような熱だけが、まだ身体にこびりついて離れない。
「わ、わからない……」
私は赤くなった顔を両手で覆い、一人、秋の夜の静寂の中で、ただただ困惑の海に溺れていた。
◇
美絵のマンションの角を曲がり、彼女の視界から外れた瞬間、僕はたまらず駆け出していた。
アスファルトを蹴るスニーカーの音が、静かな住宅街に無遠慮に響き渡る。
火照りきった顔に秋の冷たい夜風が打ち付けるが、身体の奥で暴れ狂う熱は一向に冷める気配がない。
(……俺は、何をやってるんだ……!)
荒い息を吐き出しながら、心の中で自分を激しく罵倒する。
ずっとずっと。特に、東京で再会してからは。
彼女の可愛さに心惹かれ、触れたいと思う瞬間がなかったわけではない。
けれど、そんな気持ちが芽生えたとしても、しっかりと自制してきた。
今までは、その理性の壁で完璧に制御できていたはずだったのに。
走りながら、自分の胸の奥にどす黒く渦巻いていた感情の正体に、改めて戦慄する。
まさか、自分の中にこれほどまでに強い『嫉妬心』が眠っていたなんて。
彼女が僕の知らない場所で、見知らぬ男と親しくしているかもしれないという、たったそれだけの想像で。
目の前が真っ暗になるほど冷静さを失ってしまった。
今まで生きてきて、何かに対してここまで醜く、そして激しい嫉妬を覚えたことは一度もなかった。
息が上がり、駅前のロータリーが見えてきたところで、ようやく足を緩める。
同時に、強烈な自己嫌悪と後悔が波のように押し寄せてきた。
急に抱きしめられ、困惑して目を丸くしていた彼女の顔が脳裏に焼き付いている。
驚かせてしまった。
怖がらせてしまったかもしれない。
それなのに、自分の感情の暴走に戸惑うあまり、何一つ気の利いた言い訳も、フォローもできないまま、逃げるようにその場を去ってきてしまった。
そんな自分自身に、ショックを受けている。
「最低だ……俺……」
◇
――ガタン、ゴトン。
帰りの電車に揺られながら、僕はつり革を握りしめたまま俯いていた。
車内の無機質な白い蛍光灯の光と、微かに漂う古びたモケットシートの匂いが、今の僕にはひどく冷たく感じられる。
窓ガラスにぼんやりと反射する自分の顔は、情けなさと焦りで酷く歪んでいた。
最寄り駅を降りてからも、どうやってアパートまで帰り着いたのか、よく覚えていない。
ガチャリとドアを開け、真っ暗な玄関に足を踏み入れた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
靴を脱ぐ気力すら湧かず、僕はそのまま崩れ落ちるように膝をついた。
そして、すぐ目の前にある冷たいフローリングにパタリと額を押し当てる。
「……あー……」
暗闇に包まれた狭い空間で、誰に届くわけでもない、後悔と混乱にまみれた低く情けない唸り声だけが、虚しく響き渡った。




