第36話
(もうすぐかな?)
ふと時計の針を見ると、いずみがここ、私のバイト先へ遊びにきてくれる約束の十五時を指していた。
その時、カラン、とドアの上につけられたベルが軽やかに鳴る。
約束ちょうどの時間に現れたいずみ。
彼女と目が合い、パッと顔を綻ばせた私の視界に、予想外の二人の姿が飛び込んできた。
正人くんと……祥くんだ。
「えっ、二人も……来てくれたの?」
制服姿を見られるのはなんだか気恥ずかしい。
でもそれ以上に、彼に会えた嬉しさが勝る。
浮き足立って、レジ打ちや注文伝達などでミスをしないよう、自分を必死で律した。
レジの前に立つ祥くんからは、ふわりと秋の初めの涼やかな風の香りがした。
「……お疲れさま」
少し低く、耳に心地よい声。
「ありがと……来てくれて」
彼の注文は、アイスコーヒーのレギュラーサイズだった。
(ブラックなんだ……大人っぽいな)
実は、私はブラックコーヒーの苦味はまだ少し苦手で、カフェに来るといつも紅茶系か、カフェラテを頼んでしまう。
せっかくカフェで働き始めたのだから、ブラックコーヒーの奥深さもわかるようになりたいな、と密かに決意する。
注文を終え、奥のテーブル席へ向かう三人を見送った後、エスプレッソマシンの前でスチームミルクを作っていた柳くんが、横から声をかけてきた。
「あの人たち、森の友達?」
「あ、うん。同じ大学で、同じサークルの……」
「へえー」
柳くんは、前髪の隙間から面白がるような視線を投げかけてきた。
「あの男二人のどっちかが、森の彼氏?」
「な、何言ってんの!?」
思わず声が上ずり、手元のグラスを落としそうになる。
「いや、森嬉しそうだし。なんとなく」
柳くんはカラカラと笑いながら、手際よくラテアートを仕上げていく。
柳くんとの初対面は、二週間前。
面接に受かり、制服の受け取りと業務説明のためにここを訪れた時だった。
店長さんは、三十代前半くらいの、シュッとしているけれどとても優しい雰囲気の女性だ。
説明を受けている最中、『……はようございまーす』と、少し気怠げな声と共に彼が出勤してきた。
『彼、森さんと同い年の柳くん。もう働き始めて半年くらい経っていて、一通り覚えてるから何でも聞いてね』
『も……森です。よろしくお願いします』
緊張しながら頭を下げた私に、彼は『ういっす』と軽く返し、私の顔をじっと見下ろした。
そして、少し面白がるような口調で言ったのだ。
『なんか……めちゃくちゃモテて困りそうな見た目してますね』
『…………』
初対面で、なんて反応に困ることを言うんだろうと、私は目を丸くした。
店長さんが『コホン』とわざとらしく咳払いをした。
『柳くん? たしかに森さんはとても可愛らしい顔してるけど、初対面で失礼のないようにね?』
それが、彼、柳くんとの出会い。
私が今まで周りにいた、穏やかで優しい祥くんや、明るくて気遣いのできる正人くんとは、全く違うタイプ。
遠慮がなく、ズケズケとパーソナルスペースに踏み込んでくる。
ただ、同じ大学生で生活スタイルが似ているためか、シフトが被ることが多くて。
業務の基本やレジの操作、コーヒーの淹れ方まで、なんだかんだと面倒見良く教えてくれてもらっている。
◇
「お先に失礼します」
「うす」
十七時。
朝からのシフトを終えた私は、昼から夜までのシフトに入っている柳くんに挨拶をして、急いでバックヤードへと向かった。
ロッカーを開け、腰に巻いていたエプロンを外す。
備え付けの小さな鏡で自分の姿を確認する。
(……少しだけ整えてから行こう)
着替えた時に乱れた髪を手櫛で整え、リップを薄く塗り直した。
胸を高鳴らせながら、小走りで三人の待つ席へと向かったのだった。
◇
夜風が、一日中立ちっぱなしで怠くなった足を癒す。
私の家までは、ここから歩くと二十分強くらい。
祥くんがまた「送っていくよ」と言ってくれた時、(やったー!)と心の中の私が跳びはねた。
駅に向かういずみと正人くんを見送った後、住宅街へと続く坂道を二人で並んで歩く。
等間隔に並んだ街灯が、私たち二人の影を長く伸ばしては、また縮めていく。
「今日のバイト、朝からだったよな? お疲れさま」
彼の静かで落ち着いた声は、疲れた身体にじんわりと染み渡る。
バイトを頑張った何よりのご褒美のように感じられた。
少し暗い道に入った時、後ろから車のエンジン音が近づいてきた。
「もう少し、こっち来たら」
祥くんが私の腕を軽く引き、彼の前へと寄せてくれる。
守られているようなそのさりげない気遣いに、胸の奥で甘い音が鳴った。
車が通り過ぎた後、私の後を歩く彼が、柳くんのことを尋ねてきた。
「ドリンク作るのも早かったし、しっかりしてそうな、大人っぽい人だったな」
彼の言葉に、私は初対面での出来事を思い出し、思わず苦笑してしまった。
仕事では色々と教えてもらって感謝しかないけれど、もしサークルなどで出会っていたら、絶対に仲良くははなれなかったタイプだろう。
そんなことを考えながらふと顔を上げると、いつの間にか私の住むマンションのエントランスが見えてきていた。
(……着いちゃった)
幸せな時間が終わってしまう。
寂しさが、足元へ忍び寄ってくる。
(でも、この前みたいに、名残惜しいからって、間違えて部屋に誘ったりしないように……!)
そう自分を戒める。
「…………」
ふと、隣を歩く彼の足音が止まったことに気づいた。
振り返ると、祥くんが俯いたまま、街灯の下で立ち尽くしている。
エントランスの光に照らされた彼の顔は、どこか神妙で、思い詰めたような表情をしていた。
「祥くん……?」
「…………」
顔色が悪いように見える。
もしかして、また熱が出たとかじゃないよね……?
心配になり、彼の下から顔を覗き込むようにして、その額にそっと手を伸ばそうとした。
「どうしたの? 気分、悪い……?」
その瞬間――。
スッ、と強い力で腕を引かれた。
「えっ……」
視界が暗転し、時間が完全に止まった。
次に感じたのは、頬に触れる柔らかなシャツの感触と、その奥から伝わってくる、力強く、どこまでも温かい彼の体温。
微かに香る夜風の匂いと、彼自身の香り。
私は、彼にすっぽりと抱きしめられていることに気づいた。
背中に回された彼の大きな手が、私を逃がさないように、でも壊さないように、優しく捕まえている。
――ドクン、ドクン、ドクン……
耳の奥で激しいリズムが鳴り響いている。
(何、が……起きているの……?)
思考回路が完全にショートし、混乱と歓喜が混ざり合った感情の渦の中。
私はただ、彼の腕の中で息を呑むことしかできなかった。




