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第35話

「お待たせ!」


 十七時を少し回った頃、私服に着替えた美絵が、僕たちの座るテーブルへと小走りでやってきた。

 先ほどまでのダークグリーンのエプロン姿から一転、秋口にぴったりの薄手の白いブラウスと、カーキのロングスカートに身を包んでいる。


 四人掛けのテーブルは、僕の向かいに正人といずみが二人で座っていた。

 そのため美絵は自然と、ぽつんと空いていた僕の隣の席にするりと腰を下ろした。


「お疲れさま〜! どう、人生初バイトは?」

 いずみが尋ねる。

「うん、まだ覚えることばかりで大変だけど、なんとか!」

 美絵はそう言って、少し肩をすくめて笑った。


 その瞬間、ふわりと、彼女の髪から甘い香りが漂ってきた。

 バイト中は後ろで一つに結んでいた栗色の髪が、今はほどかれている。

 肩のあたりで柔らかく波打つその髪からは、いつもの石鹸のような香りに、ほんのわずかにカフェのコーヒーの香ばしさがブレンドされた、深みのある匂いがした。


「これ、さっきみんなで考えてた屋台のデザイン案なんだけど、どうかな?」

 いずみがノートを美絵の前に差し出す。

「えーっ、どれも可愛い! 特にこの、鈴カステラをキャラクターっぽくしたやつ。私すごく好き」


 ノートを覗き込むため、美絵が少しだけ前かがみになる。

 その拍子に、耳にかけていたサラサラの髪が、ハラリと白い頬に沿って滑り落ちた。


 夕暮れ時のカフェの窓から差し込む、傾きかけたオレンジ色の西日が、彼女の髪の毛一本一本を透かして黄金色に染め上げている。


 ノートのイラストや文字を追う真剣な眼差し、小さく動く桜色の唇。


(……綺麗だな)


 すぐ隣で繰り広げられるその無防備な仕草に、僕はすっかり見惚れてしまった。


 ◇


「よしっ。じゃあこの案を一年のグループチャットに投げとくね!」

 いずみがノートをパタンと閉じ、伸びをした。


 カフェの窓の外は、いつの間にかすっかり赤みを失い、藍色の夜の帳が下り始めていた。



 店を出ると、昼間の熱気は嘘のように引き、秋の始まりを告げる涼しい夜風が頬を撫でた。

 街路樹の葉がサワサワと擦れ合う音が、どこか少し寂しげに響く。


「俺はこの後バイトだから、駅向かうわ!」

「私も、買い物して帰りたいから電車乗る」


 正人といずみが、駅の方向を指差して言うので、僕は美絵の方を見た。


「私、実はここからなら、徒歩で帰れる距離なんだ。だから、ここで……」

 考えるより先に、言葉が口を突いて出ていた。

「じゃあ……俺は美絵を送ってくよ」

 彼女が小さく目を見開く。

「えっ、でも。祥くんも電車乗るんじゃ……」

「……暗くなってきたし、俺はこの後予定もないから、少し歩きたいわ」

 僕がそう言うと、美絵は小さく「じゃあ……お言葉に甘えて」と言いながらペコッと小さなお辞儀をした。


「おっ、じゃあ祥太郎、ヨッシーのこと頼んだぞー!」

「またねー! 二人とも気をつけてー!」


 駅の方へ向かって歩き出した正人といずみが、ひらひらと手を振る。

 僕と美絵も軽く手を振り返した。


 ……気のせいだろうか。

 遠ざかっていく二人の背中が、なんだか「イシシシ」と悪巧みを企んで笑い合っているように見えたのは。


 ◇


 商店街の喧騒から離れ、住宅街へと続く緩やかな坂道を二人で歩く。

 等間隔に並んだ街灯が、ポツリポツリとオレンジ色の光を灯し始めていた。


「今日のバイト、朝からだったよな? お疲れさま」


 静かな空気を破るように僕が声をかけると、彼女は歩幅を合わせながら顔を上げた。


「うん、ありがとう。疲れるけど、でもすごく楽しいよ。それに……初めて自分でお金を稼げるのも、嬉しいなって」


 彼女の表情は、秋の夜空のように澄み切って晴れやかだった。

 その自立しようとする真っ直ぐな意志が、僕には眩しく感じられた。


「そっか。よかった」

「祥くんたちも、わざわざ来てくれてありがとうね。屋台のデザイン、すごくいい案が出てたし、文化祭が楽しみになってきた!」


 そこからしばらくは、お互いのクラスの出し物の進捗や、サークルの屋台の当番の話など、たわいない会話が続いた。


 美絵のマンションまであと少しというところで、広い通りから、車が一台ギリギリ通れる程度のやや狭い一本道へと入る。

 ブロック塀が続くその道は、外灯も少なく、一段と薄暗かった。


 ふと、後ろから車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。

「もう少し、こっち来たら」

 僕は美絵の右腕の袖口を軽く引き、彼女を道路の内側――僕の前へと引き寄せた。


 ヘッドライトが僕たちの影を長く前に伸ばし、車がゆっくりと横を通り過ぎていく。


「……ありがと」

 前を見ながらお礼を言う彼女の背中を、車のテールランプの赤い光がチカチカと照らしていた。


 車が通り過ぎた後、会話が少し途切れた。


 あたりはすっかり暗くなり、遠くで鳴く秋虫のジージーという音だけが、耳の奥で響いている。

 心地よい沈黙だったはずなのに、僕の胸の奥には、カフェにいた時からずっと燻り続けている、黒くて重たい塊があった。


「……そういえばさ」

 我慢できず、僕はその塊を吐き出すように切り出す。

「さっき、カウンターでドリンク作ってた人。年、近そうだね」

 声が不自然に低くならないよう、努めて平坦なトーンを装う。

 美絵は歩きながら、不思議そうに首を傾げた。

「ああ、うん。同い年で、西大学の人らしいよ」

 たしか、僕らの大学と同じ路線の、数駅先にある大学だ。

「へえ。ドリンク作るのも早かったし、しっかりしてそうな、大人っぽい人だったな」

 つい、探るような言葉になってしまう。

「実家が東京で、受験が終わってからすぐあそこでバイト始めたらしくて。もう半年近く経ってるから、ただ慣れてるだけだよ。接客モードだからしっかりしてそうに見えるだろうけど……祥くんのほうが、全然大人っぽいよ。あの人、実は結構失礼な人だし……」


 美絵の声が、どこか楽しげに聞こえる。

 彼とのバイト中のやり取りを思い出しているかのように、彼に気を許しているように思えた。


 ――ドクン、と。

 心臓が、ひどく嫌な音を立てて跳ねる。


 胃の底に、氷水を流し込まれたような冷たい感覚が広がった。


 それは、今までに味わったことのない、強烈で、どうしようもなく醜い「嫉妬」という感情だった。


 中学時代、彼女が高校生の彼氏と歩いているのを見かけた時も、もちろんショックは受けた。

 けれど、あの時はまだ、彼女は僕にとって「住む世界の違う、遠い存在」だった。

 だから、手が届かないことをどこかで諦め、受け入れることができた。


 大学で再会してからも、正人や他のサークルの男子と彼女が話しているのを見かけることはある。

 しかし、自惚れを抜きにしても、客観的に見て彼女が一番気を許し、親しくしてくれているのは僕だという自負があった。

 だから、彼らに対して本気で嫉妬することはなかった。


 でも……今回は違う。


 先ほどのカフェで見た、カウンターの向こう側での、二人のやりとり。

 そして今、彼女が見せた、僕の知らない彼に対する「気を許したような」声。


 彼女のアルバイト先という、僕のまったく手の届かない、知らない世界。

 そこで、週に何日も長い時間を共にし、僕の知らない会話を重ね、二人の距離が急接近してしまうのではないか。

 僕が入り込めない隙間で、彼女が誰かのものになってしまうのではないか。


 焦燥感が、胸の奥でギリギリと音を立てて渦を巻いた。

 呼吸が浅くなり、何の言葉も出てこなくなる。



「祥くん……?」


 いつの間にか、彼女のマンションの前に着いていた。

 立ち止まり、俯いて黙り込んでしまった僕の顔を、美絵が心配そうに下から覗き込んでくる。


 エントランスの街灯の光が、彼女の大きな琥珀色の瞳にキラキラと映り込んでいる。

 その瞳の奥に映る自分の顔が、ひどく余裕のない、情けないものに見えた。


「どうしたの? 気分、悪い……?」


 彼女の白くて小さな手が、僕の額にそっと触れようと伸びてくる。

 その優しさが、僕の中で燻っていた焦燥感のダムを、一気に決壊させた。


 誰にも渡したくない。

 僕の知らないところで、他の誰かにそんな顔を見せないでほしい。


 感情の整理がまったくつかないまま、僕は伸びてきた彼女の細い腕を強く引き寄せた。


「えっ……」


 彼女の小さな戸惑いの声は、僕の胸板に吸い込まれて消えた。

 気がつけば僕は、両腕で美絵の華奢な身体を、強く、けれど壊さないように、抱きしめていた。

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