第34話
九月に入り、朝夕の風にはわずかに秋の気配が混じるようになったとはいえ、日中の太陽はまだ夏の未練をたっぷりと残している。
網戸越しに吹き込んでくる風は乾いた土の匂いを運んでくるが、部屋の中に溜まった熱気を追い出すには至らない。
僕は薄いタオルケットを畳み、唸りを上げる扇風機の首振りをぼんやりと目で追っていた。
今日は久しぶりに、本当に何の予定も入れていない完全な休日だ。
七月の終わりにバイトを詰め込みすぎて、図書館で倒れかけた――そして美絵に看病させてしまった――あの高熱の反省から、月に二、三度は意識的に体を休める日を作ることにしたのだ。
静かな部屋にいると、小さな冷蔵庫から漏れる低い駆動音と、遠くの道路を走る車の走行音だけがやけに鮮明に聞こえてくる。
――ブブッ。
ローテーブルに置きっぱなしにしていたスマートフォンが、短い振動音を立てた。
画面を見ると、正人からのメッセージ通知が光っている。
『今日予定ある?』
『ないよ』
短く返信を打つと、すぐにスタンプと共に次のメッセージが飛んできた。
『コーヒー飲みたくね?』
よくわからない誘いだったが、一人で狭い部屋に籠もっているよりはマシかもしれない。
指定された待ち合わせ場所は、大学から二つ隣の駅の改札前だった。
休日の午後にわざわざそこまで呼び出される理由がわからなかったが、とりあえずTシャツに薄手のシャツを羽織り、部屋を出た。
◇
駅の改札を抜けると、まだ強い日差しを避けるように日陰に立つ正人と、その隣にいるいずみの姿が見えた。
「おっ、祥太郎! 来た来た」
「おー。いずみもいる。ていうか、なんでこの駅?」
不思議に思って尋ねると、正人はニヤリと笑って親指を後ろの商店街の方へ向けた。
「ヨッシーのバイト先のカフェ、行こうぜ!」
「……え?」
美絵の、バイト先?
「美絵、一、二週間くらい前から、バイト始めたんだよ〜」
いずみが、丸い目を少し瞬かせて言う。
「ああ……全然、知らなかった」
「俺もいずみんから聞いてさー。いずみんが今日、ヨッシーのバイト先に遊びに行く約束してるって言うから、俺もコーヒー飲みたくなって誘ったわ!」
あっけらかんと笑う正人の言葉に、僕の心臓は途端にトクトクと音を立てた。
彼女がカフェで働いている。その事実を全く知らなかったことに少しだけ胸がチクリとしたけれど。
それ以上に、今から「働く彼女」に会えるという予期せぬ展開に、足取りが勝手に少しだけ早くなるのを止められなかった。
◇
連れて行かれたのは、駅前のロータリーから少し歩いた先にある、入ったことはないが見覚えのある全国チェーンのカフェだった。
ガラス張りの外観に、ダークブラウンの木目を基調とした落ち着いたデザイン。
重たいガラス扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと引く。
カラン、とドアの上につけられたカウベルが、控えめで心地よい音を立てた。
その瞬間、深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いと、微かに焦がしたキャラメルのような甘い香りが、冷房の効いたひんやりとした空気と共に全身を包み込んだ。
「いらっしゃいませ」
エスプレッソマシンのプシューという抽出音や、ボサノバのBGMを縫って、鈴を転がしたような澄んだ声が店内に響いた。
間違いなく――彼女の声だ。
「美絵〜! 来たよ〜」
いずみが嬉しそうに小さな手を振る。
レジカウンターに立っていた美絵は、いずみの姿を認めて顔を綻ばせたが、すぐ後ろに続く正人と僕の姿に気づき、目を丸くして動きを止めた。
「えっ、二人も……来てくれたの?」
ダークグリーンのエプロンをきゅっと腰に巻き、髪を後ろで一つにスッキリとまとめた彼女の姿は、いつもの大学での雰囲気とは違い、どこか大人びて見えた。
「よ〜! ヨッシー、様になってんなあ!」
正人が冗談めかして笑いながら、レジへと進んだ。
いずみ、正人、そして僕の順で列に並ぶ。
ふとカウンターの奥へ視線をやると、ドリンクを作るポジションには、僕たちと同い年くらいの男の店員が立っていた。
「どれどれ。何をいただこうかねえ」
正人がメニューボードを覗き込みながら、大げさな身振りでふざけている。
やがて、僕の番が回ってきた。
レジ越しに向かい合うと、彼女から漂ういつもの清潔な石鹸の香りが、コーヒーの香りに混じってふわりと届いた。
「……お疲れさま」
少し声を潜めて言うと、彼女の頬がほんのりと桃色に染まった。
「ありがと……来てくれて」
少し照れたようにはにかむその笑顔が、あまりにも可愛くて、僕は直視できずに慌てて手元のメニューボードへ目を落とした。
「えっと……アイスコーヒーのレギュラー、お願いします」
「……かしこまりましたっ」
背筋を伸ばし、はっきりとした敬語で応える彼女。
普段の少し甘えたような声も好きだが、この一生懸命な仕事モードの敬語も、たまらなく可愛い。
僕が会計を済ませると、美絵は振り返り、カフェの店員同士しか使わないような、流れるような略語の暗号で僕たちの注文を奥の男に伝えた。
「はーい」
彼は慣れた手つきで、プラスチックのカップに氷を入れ、エスプレッソマシンとミルクを魔法のように操り、手際よくパパッと三人分のドリンクをカウンターに並べた。
「森のお友達ですか? ごゆっくりどうぞ」
僕たちの方を向いた彼は、流れるくらいの長さの髪をワックスで無造作かつ上手にまとめた、いかにも「東京の大学生」といった風貌の、爽やかな男子だった。
「あ、どうも……」
少し気圧されながら会釈をして、僕たちは受け取りカウンターからドリンクを手に取り、窓際のテーブル席へと向かった。
椅子に腰掛け、ストローの紙を剥がしながら、僕は無意識のうちにレジの方へ視線を泳がせていた。
客足が少し落ち着いたのか、先ほどの彼がレジの美絵に歩み寄り、何か軽口を叩いているのが見えた。
彼が笑いながら美絵の肩のあたりを軽く小突くような仕草をし、彼女は少し困ったように笑いながらそれをあしらっている。
「…………」
グラスの表面に結露した水滴が、指先を冷たく濡らす。
氷がカラン、と溶けて崩れる音が、やけに頭の中に響いた。
「カウンターの人も、年同じくらいかな? 美絵、人見知りだけど……バイト先でうまくやってそうでよかった」
カフェラテのストローを咥えながら、いずみが安堵したように言った。
「……だな」
僕は声のトーンを隠す余裕もなく、ただ短く返した。
自分の顔から一切の表情が抜け落ち、声が低く硬くなっているのが自分でもわかった。
その不自然な空気に気づいたいずみが、ハッとして言葉を止める。
僕の顔をまじまじと見つめて何かを察したようにパチパチと瞬きをした後、ニヤニヤと笑いを堪えるような表情に変わった気がした。
(…………?)
いずみのその表情の意味はわからなかったが、今の僕にはそれを追求する気力がなかった。
「せっかく集まったし、文化祭の出し物の話、進めとかねえ?」
正人がアイスティーを飲みながら、空気を変えるように提案してきた。
「一年の担当になってる、屋台の屋根のデザインづくりさ。もう締め切りまであんまり時間ないし」
「あっ、それいいね!じゃあ、デザインのアイディアいくつか考えて、一年生のグループチャットに送るのはどうかな?」
いずみがトートバッグから、ノートとペンを取り出しながら言う。
サークル内の僕たちの同期は、全部で十二人いる。
全員で集まるのは難しいから、この場で案を練って共有するのは効率がいい。
「ああ、いいと思う」
「賛成」
僕と正人が了承し、ノートを開いてアイディアを出し合い始めた。
「クラスの方も進めないとだよなー。今週集まりあるけど」
正人がペンを回しながら続ける。
「女子が先導してくれてるっぽいけど、頼りっぱなしは悪いから、俺たちもやらんとなー」
「ああ、だな……」
適当に相槌を打つものの、正人の声は右耳から左耳へと素通りしていく。
僕の意識は、目の前のノートではなく、どうしても数メートル先のカウンターへと引き寄せられてしまっていた。




