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御伽噺

 

 長い金の髪はその姿を消し漆黒の短い髪に、マリンブルーの瞳は濃い焦げ茶色へと緩やかに変化する。その華奢な体だけがあまり変化しないのは、術にあまり関与されていないせいだろう。

 ねじり上げられた手から短刀が零れ、少女の瞳が驚愕に見開かれる。

「どう…して―?」

「真夜中に寝所まで会いに来て下さるのは光栄の至りですが、…使い慣れぬものを持つと貴女自身が怪我をしますよ?」

 どこかからかう様なイエルトの口調に、アデリエルの精神(こころ)は恐慌状態に陥った。

「いや! 貴方なんか大嫌いよ! 放して、放して―!!」

 泣き叫びながら暴れる少女を抑え込み、抱き寄せて無理やり唇を重ねる。そのまま深く口づけた。

「ん………っ!」

 唇をこじ開けられ、尖った舌が入ってくる。その舌が生き物のように彼女の口腔内を行き来する。

 必死に抵抗しようとするが、イエルトの厚い胸はぴくりとも動かない。

「―ん、ん…―っ!!」

 抗い切れず、背筋を走るぞくりとした震えに体中の力が抜けたとたん、唇が解放される。

 どちらからともなく、大きなため息が漏れた。アデリエルの目が大きく潤んでいるのを確認すると、イエルトは満足そうに微笑む。

「これでおあいこだ」

 先ほど、眠っている彼に口づけた事を言っているのだろう。つまり、その時点でもう気付いていたと言う事だ。

 意地悪く笑うイエルトに、思わずその頬を思いきり平手で打った。あんな力づくの口付けでおあいこだなんて、虫が良すぎる。

「貴方なんか、大っ嫌い、よ―」

 睨みつける濡れた瞳は勝気な色を残したまま、唇だけが震えていた。

 イエルトは殴られた頬をぬぐって、艶然と笑った。

「嫌いで結構。けれど、ここで僕を殺せば両国間の戦争は免れませんよ?」

「!」

「貴女に、…もしくは貴女の背後にいる方にどんな思惑があるかは知りませんが、僕を殺す事がお互いの国にとって有益だとは思えない」

「背後になんて、誰もいません! 私は私の意志で…」

「僕を殺そうと?」

「それは-!」

 口ごもる少女に、王子はさもおかしげにくすくす笑い出した。

「すみません、冗談ですよ。苛めすぎました。貴女があまりに可愛らしい事ばかり言うので」

 その驕慢とも言える態度に、更にアデリエルの頭にカッと血が昇る。自分が愚かなのだと分かってはいたが、溢れ出る怒りの咆哮は止まらなかった。

「だって-! 貴方には『人魚姫』がいるんでしょう!? ずっと待って、待って、焦がれた相手が! だったら何故、あんな嘘を-!」

 政略結婚の相手を、かけがえのない人になるだろうと彼は言った。嘘だと思った。あんな目で、あんな狂おしい表情で、彼はいつも海を見ているのに、一度しかあった事のない他国の娘を大切に思う筈がない。だからきっと、それは王族としての常套句なのだろうと-

「姫は誤解しています」

「口先だけの言葉なんて聞きたくありません」

「貴女が知りたがっていた『人魚姫』は、僕の母ですよ」

「…え?」

 予想もしなかった言葉に、アデルは言葉を失う。

「お母、様…?」

 数秒の沈黙が流れた。

「言ったでしょう、昔話だって」

 唇の端で笑いながら、イエルトは彼女の背後に見える夜の海を見つめた。

 墨を流したような水面に、波頭だけが新月の光を浴びて白い。

「父が-、若くまだ王子だった頃の事です。祝宴の船で難破して海に投げ出された彼は、遠く海神を祭る島の巫女姫に助けられました。彼らはあっという間に恋におち、王子はそのまま彼女を島から連れ出して妃にした。けれど、土台無理だったんです」

 イエルトの言葉は淡々として淀みない。何の感情も交えず事実だけを語ろうとする姿は、却って遠い諦念を思わせ、どこか哀しみを伴っていた。

「無理…?」

 素直な瞳で問い返す少女に、苦笑を返す。

「思いだけで現実を動かす事はできません。突然連れてこられた娘に周りは戸惑い続け-、彼女は慣れぬ土地の慣れぬしきたりにやがて精神を病んだ。何せお互いに無辜の民ではない。王子と異国の巫女姫ですからね。彼女は彼女が愛する王子と同じくらい愛する海に、ずっと引き裂かれ続けたんです。衰弱していく妻の姿に、王子は見かねて彼女を島に返しました」

 幼い頃の記憶が去来する。

 母を呼んで泣く子供。

 あれは三つの時だったろうか。それとも四つくらいだったろうか。若い母はまだ二十歳を超えたばかりだったはずだ。

(かあさま、ぼくをみて。ぼくはここにいるよ、かあさま――!)

 美しい母の横顔が思い浮かぶ。彼女の眼に映るのは窓の外、遥か彼方の海だけであり、幼い息子がそこに映る事はなかった。

 父親が抱き上げて、泣き叫ぶ少年を母から引き離した。侍女を叱責する声が響く。

(イエルトを近付けるなと言っただろう!)

 今ならあれは、妻と息子の両方を思う、父なりの不器用な思いやりだと分っている。しかし、あの頃は分らなかった。

 ただでさえ感受性の強い少年は、己を守るために物語を作り上げる。

(母様は本当は人間じゃない。人魚なんだ。だから、海に帰りたいのも仕方がないんだ)

 そう思いながらも、ずっと母親が去った海を見つめて過ごした。

 いつかは帰って来てくれるかもしれない、イエルトの事を見て微笑んでくれるかもしれない。有り得ないと知りつつも、美しい母の姿はイエルトの心をとらえたまま、放さなかった。

「幻想ですよ。子供が自分の砂の城を守るために作り上げた、美しいファンタジー。それだけです。だから…貴女が気に病むような事は何一つありません」

「イエルト様…」

 王子の語る言葉に、元々聡明な少女は素早く状況を理解する。

「だったら…貴方は初めから分ってらしたのですね。わたくしが『人魚姫』ではないと」

 紅い唇から自虐の笑みが零れる。

「…わたくしだって分ってました。王家に生まれた以上、国の為に嫁ぐのは当然だと。これで両国の和平が保たれるなら、相手が誰であろうと何の異論もありませんでした。なのに―」

 振り絞る声が涙でかすれる。

「初めて貴方にお会いして…、貴方の噂を聞いた途端、怖くなってしまった。想い人がいる方に嫁ぐなんて、耐えられるのだろうか。単なる我儘だとは重々承知しています。でも、事実を確かめずにはいられなかった」

 己の愚かさに吐き気がしそうだった。これのどこが評判の高い才姫だと言うのだろう。政略結婚の相手に本気で愛されたいと願うなんて、夢見がちな普通の娘となんら変わりないではないか。

 俯いて唇を噛み締める目の前の少女に、いとおしさがこみ上げる。確かに彼女のとった行為は王家の一員として愚かしいにもほどがある。しかし-

「僕は、貴女が羨ましい。そんな風にまっすぐ相手を見つめて、思いのたけを振り絞って行動に出る勇気には素直に敬服します」

「そんな事…!」

 彼女の立場では、一歩間違えば最悪の結末をもたらす行為だ。彼の言葉は嫌味としか聞こえない。けれどイエルトは本気だった。

「御伽噺ではいやですか?」

「え…?」

「きっかけが何であれ、世にも美しい王子と姫が出会って、末永く幸福に暮らすと言うのはいけませんか?」

「あ、だって…」

 イエルト自身、彼女の行為の愚かさは重々承知だったが、それでも向けられたまなざしに、体中から溢れ出ていた想いに、呼応する何かがなかったと言えば嘘になる。その一途さに、無言の訴えに、いつしか捕われていた。

「少々…マザコンで情けない王子ですが、愚かしくも勇敢で情熱的な姫君に愛されていると自惚れていいのだろうか」

 面白そうにじっと覗き込む王子の瞳に、アデルの胸中は怒りと羞恥で荒れ狂う。答えなんか、分かりきっているくせに。

「ひとつだけ、聞かせて下さい」

 精一杯の矜持をかき集めて、アデルはずっと気になっていた事を確かめようとした。

「何ですか?」

「あの、いつから…わたくしの正体に気づいてらしたんですか?」

「えーと…」

 イエルトは困った様にあらぬ方向を見ながら言葉を濁した。

「割と初めから、かな」

「どうして!」

「海と、私を見る『エリン』の目が、アデリエル姫のそれと同じでした」

 ほんのりと照れ隠しの苦笑が混じる。

「割と、勘はいい方なんです」

「じゃあ、なんで…」

 即座にその正体を暴こうとしなかったのか。

「貴女の真意が分かりませんでしたし、まずは間諜を使って確証を掴まないと…」

 山脈を越え、子飼いの密偵を走らせてアデル姫の不在を確認する。その結果が届いたのはつい先日だ。

「全てを分かっていらして、愚かな娘だと…、私を憐れんでいらしたの?」

 アデルの正体を知りながら、イエルトは「人魚姫」ごっこに付き合っていたのだ。あの優しい言葉も、抱擁も、全て、彼女だと知りながら。恥ずかしくて消えてしまいたいくらいだ。

 けれどあの時、「エリン」に対して彼がくれた言葉や優しさに、一縷の望みを抱いてしまう自分はやはり浅ましいのだろうか。

「…質問はひとつでは終わりそうにないですね」

「イエルト様の真意を…まだお聞きしていないわ」

 そう言いながら、不安で顔を背けてしまう自分が悔しい。

 彼は、自分のことをどう思っているんだろう。本当に知りたいのは、もうそれだけだった。

「…先ほどの口付けで分かって貰えなのは心外だなあ…」

 ぼそりと言うイエルトの言葉に、カッと顔が熱くなった。

「あ、あんな…あれは、だって…」 

 情熱的という以上に暴力的でさえあった先ほどの口付けに、急に不安が募る。髪の毛一筋ほどの抵抗も許さなかった。そうして、彼女の内側に熱い塊を送り込んだ。

 思った以上に、イエルト王子はしたたかな人間だった。

 そして…考えたくはないが、思った以上に女性慣れしている気がする。

 端正な外見と王子と言う身分を併せ持っているのだから、彼が女性の好意に慣れていても当然かもしれないが、それ以上に年齢不相応に世知長けた感があるのは気のせいだろうか。彼はどこか底が知れない。有り体に言えば、人が悪い。

 人が好いだけの無能な王よりは、為政者として決してマイナスではないのだが…果たして自分の手に負える相手だろうか。

 残念ながら、彼がしょっちゅう城を抜け出しては港町や猟師町を様々な実地勉強の場としていた事実を、この時点でアデルはもちろん知らない。ただ、元々聡いこの姫は、イエルトが見た目通りの優しいだけの王子でない事に気付かざるを得なかった。

(もしかして…私は早まった事をしたのかしら…)

 愚かな振る舞いに走った事は充分自覚しているが、感情に任せて彼の人となりを見誤ってはいないだろうか。

 思いだけで現実を変えることはできない、と彼は言った。それは王族として育ったアデルも重々承知している。だから御伽噺のような結末を鵜呑みにすることはできない。できる筈がない。

 さりとて彼女が逃げないように重ねられたままの、彼の手の熱さはどうすればいいのだろう。鷲摑みにされたままの荒れ狂う胸の内はー?

 未だ混乱の収まらぬ微かに怯えた目で、アデルはイエルトをそっと見上げる。

「真夜中の寝室で、そんな目をされても困るんですが…」

「え?」

「たぶん…あなたが思っている以上に僕は貴女を愛しています。だから覚悟を決めて僕と結婚してください」

 前髪が触れるほどの至近距離で、今までにない真顔を見せられてプロポーズされた。

「え? あ、はい」

 思わず素直に返事をしてしまい、直後、自分の間抜けさに泣きたくなる。

「ずるいわ…」

 目を合わせたままでいるのが耐えられなくて、顔を反らしながら泣きそうな声が漏れた。

「何がですか?」

「だって…、その-」

 自分でも何が言いたいのかよく分からない。ここは一人になって落ち着いて考えた方がよいかもしれない。

「あの…、とりあえず手を離してください」

「嫌です」

「イエルト様!」

「貴女が浜辺に現れてから…僕がどれだけ自制心を働かせていたかなんて、貴女は知らないでしょう?」

 彼はようやく獲物を捕らえた嬉しげな眼で彼女を見つめる。

「え…?」

 この様子だと、本当に分っていない。イエルトの苦笑がますます深くなった。

 いつの間にか、重ねられた手は彼女の背中に回り、二人の間にあった隙間がなくなってきている。

「じゃあ、教えてあげます」

「ちょ、待っ…!」

 言葉は唇によって遮られる。先ほどよりもずっと濃厚な、けれど焦らす様な甘い口付けが続く。

「ん…ふ、…くっ」

 胸の奥にある熱い疼きを煽られて、アデルは無意識に彼にしがみ付いていた。

 有り得ない自分の中の変化に怖くなって目を瞑っていたら、耳元で低い声が囁く。耳にかかる吐息がくすぐったくて、逃げようとしたが無駄だった。

「思いだけで現実を変えることは出来ない。でも、思いがあれば何かを変えることは出来ます」

 ゆっくり目を開けると、この上なく優しく微笑む彼の瞳がすぐそこにあった。

「だから、僕達はちゃんと一緒に幸せになりましょう」

 この城に来てから一生分流したと思った涙が、まだ滲んでくる。幸福で胸が詰まりそうになった。

「―もう、信じられない…」

 感情に流されているのかもしれない。

 彼との付き合いは一筋縄ではいかないだろう。

 それでも―

(ずっと、この人のそばにいたい)

 寄せては返す波の音が、彼女のささくれた心を癒していく。それ以上に、彼に対する想いがどうしても冷めていかないのが不思議だった。

 万感の思いをこめて、自分からキスをする。

 イエルトは一瞬戸惑う目をしたが、彼女の細い指に自分のそれを絡めながらゆっくりと彼女を寝台に押し倒す。アデリエルはもう抵抗しなかった。無駄だと分かっていたからだ。


 彼に出会ってから、アデルの胸の奥に住んでいた悲しげな人魚が不意に微笑んだ気がしたが、やがてそれも交わされる熱い吐息の向こうへ、遠いさざ波の音と共に消えていった。


 その日を境に、拾われた少女の姿を見たものはいなかった。


   ◇   ◇   ◇


「もし人魚姫に会いに行くときは、僕も連れてってくれる?」

「そうだな。考えておこう」

 あの日の小さな息子が更にこんな息子を作ったと知ったら、彼女は喜ぶだろうか。

 目の前の少年は、母と引き離されたときの息子によく似ていた。父親譲りの茶目っ気のある瞳に、母親譲りの黒髪がよく映えている。

 遠くで母が呼んでいる声を耳にし、少年は祖父の膝から飛び降りた。

「じゃあね、おじいさま。また来るね」

「ああ。ちゃんと勉強するんだぞ」

「はあい」

 元気よく駆け出す孫の姿に、前王は目を細めて送り出す。

 自分にできる事はすべてやった。そして王位はとっとと息子に譲り渡した。それもこれも、再び彼女に会いに行くためだった。

 彼女は自分の為に全てを捨ててついて来てくれた。その結果、多くの辛い思いをさせる事になってしまった。息子と引き離されたのもそのひとつだ。周囲の目は決して温かいものではなく、それ故に彼は必死に努力して王としての揺るぎない地位を作り上げた。しかし、彼女のための努力は、皮肉にも彼女を孤独に追い込む事となってしまった。

 最後まで沈黙を守り通し、望郷を叫ばずにいた事が、唯一の彼女の戦い方だったとわかっている。

 だから-

 国交のためとは言え、花嫁として迎えた隣国の王女はなかなか聡明で覇気に満ちている。あの娘ならあのぼんくら息子ともうまくやっていくだろう。もう充分自分は務めを果たしたのだ。

 だから、今度は自分が彼女の元へ行く。それが、彼の長い間心に秘めていた決意だった。

 この事を知ったら、あのバカ息子は笑うだろうか。 

 …まあ、それも構うまい。

(エリン-もうすぐ君の元へ行く)


 いつか見た、あの碧い海に。

  

 

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