第40話 初心者卒業
朝の柔らかな陽射しが、アストリアの石畳を黄金色に染めていた。
昨夜の激戦で受けた傷はまだ癒えていない。
腕を動かせば筋肉が軋み、身体のあちこちが鈍く痛む。
それでも、その痛みさえ心地よく感じられた。
グランは腰にメイスを下げ、左腕に丸盾を装着すると、冒険者ギルドへ向かった。
重厚な扉を開けると、朝から多くの冒険者で賑わっている。
依頼を選ぶ者。
討伐帰りの者。
仲間と笑い合う者。
その中を歩き、受付へ向かった。
「おはようございます、グランさん。」
受付嬢が優しく微笑む。
グランは一礼すると、腰の革袋を机へ置いた。
袋の口を開き、中から魔晶石を取り出していく。
ホーンラビット。
ゴブリン。
キラービートル。
草原狼。
そして最後に、一際大きな魔晶石を静かに置いた。
受付嬢の手が止まる。
「……こちらは。」
魔晶石を魔道具へかざす。
淡い光が揺らぎ、魔道具に討伐記録が浮かび上がった。
「第五層階層主、ホブゴブリンの魔晶石ですね。」
彼女は記録を確認しながら、小さく頷く。
「これまでの討伐実績と合わせ、昇格条件を満たしています。」
グランは思わず顔を上げた。
「本日より、グランさんは初心者を卒業し、Fランク冒険者へ昇格となります。」
奥から新しい冒険者プレートが運ばれてくる。
受付嬢はグランの初心者プレートを受け取ると、魔道具へ重ねた。
淡い光が静かに流れ、初心者の刻印が消えていく。
代わりに、Fランクを示す刻印がゆっくりと浮かび上がった。
「おめでとうございます。」
その一言と共に、新しいプレートが差し出される。
グランは両手で受け取った。
冷たい金属。
しかし、その重みは以前とは違って感じられた。
塔へ初めて足を踏み入れた日。
ホーンラビット一匹にも苦戦した。
何度も転び、何度も傷付き、悔しさを噛み締めた。
レイナに叩き直され、ミリアに支えられ、エルドに導かれながら、毎日のように塔へ通い続けた。
その積み重ねが、この一枚に刻まれている。
受付嬢は穏やかに微笑む。
「派手な戦果ではありません。」
「ですが、一歩一歩積み重ねてこられた討伐実績は、立派な努力の証です。」
「自信を持ってください。」
胸の奥が熱くなる。
グランは新しいプレートを見つめ、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その声には、昨日までより少しだけ自信が宿っていた。
ギルドを出ると、爽やかな風が吹き抜ける。
空を見上げれば、願いの塔が今日も静かに天へ伸びていた。
まだ遠い。
それでも昨日より、ほんの少しだけ近付けた気がした。
夕暮れ。
星塔の旅団へ戻ると、食堂から香ばしい匂いが漂ってきた。
扉を開ける。
「お帰りなさい。」
ミリアが満面の笑みで迎えた。
机には普段より少し豪華な料理が並んでいる。
こんがり焼かれた肉。
野菜の煮込み。
焼きたてのパン。
色鮮やかなサラダ。
そして小さな果実酒。
「今日は特別です。」
「グランさんの初心者卒業祝いですから。」
グランは思わず目を丸くした。
「僕の……ですか。」
「もちろんですよ。」
ミリアは嬉しそうに笑う。
その横でレイナが腕を組んだ。
「勘違いするな。」
「祝いなのは今日だけだ。」
「Fランクになった程度で浮かれるなよ。」
ぶっきらぼうな口調。
けれど、その耳が少しだけ赤くなっていることにミリアは気付いていた。
エルドが酒杯を持ち上げる。
「では。」
「グランの初心者卒業を祝して。」
「乾杯。」
四人の杯が静かに重なる。
乾いた音が食堂へ響いた。
食事が始まる。
ミリアは次々と料理を取り分ける。
「たくさん食べてください。」
「怪我を治すには栄養も必要です。」
「ありがとうございます。」
温かなスープを口に運ぶ。
優しい味が身体へ染み渡る。
自然と肩の力が抜けていく。
こんな食卓を囲むのは、いつ以来だろう。
フェルン村で父と母と過ごした日々が、ふと胸をよぎった。
レイナは肉を頬張りながら、小さく口を開く。
「……まあ。」
少しだけ間を置く。
「前よりは、ちゃんと冒険者らしい顔になった。」
グランは目を丸くした。
それはレイナなりの精一杯の褒め言葉だった。
「ありがとうございます。」
照れ臭そうに笑うグランを見て、レイナはすぐ顔を逸らす。
「まだまだ半人前だ。」
「これから先は五層なんかより、ずっと厳しい。」
「油断したら死ぬ。」
「はい。」
その返事に迷いはなかった。
エルドは静かに酒を口へ運び、穏やかな笑みを浮かべる。
「初心者を卒業したからといって、急ぐ必要はない。」
「人は昨日の自分より、一歩だけ前へ進めば十分じゃ。」
「その一歩を積み重ねた者だけが、いつか高みへ届く。」
「今日、お前さんが歩いた一歩は、誰にも奪えん。」
グランは静かに頷いた。
「はい。」
短い返事。
けれど、その瞳には確かな意志が宿っていた。
食事が終わる頃には、食堂には穏やかな笑い声が広がっていた。
派手な宴ではない。
豪華な贈り物もない。
それでも、この時間はグランにとって何より温かかった。
帰る場所がある。
迎えてくれる人がいる。
その当たり前が、どれほど幸せなことなのか。
グランは誰よりも知っていた。
夜。
一人、中庭へ出る。
夜風が頬を撫で、見上げた先には願いの塔が月明かりを浴びて静かに聳えている。
グランは胸元から新しいFランクプレートを取り出した。
月の光を受け、小さく輝く。
そっと握り締める。
脳裏に浮かぶのは、フェルン村。
父ルークの大きな背中。
母エレナの優しい笑顔。
『好きなように生きなさい。』
あの日の言葉は、今も胸の中で生き続けている。
グランは静かに空を見上げ、小さく微笑んだ。
「母さん。」
「父さん。」
「僕、少しだけ前に進めたよ。」
夜風が草木を揺らす。
返事はない。
それでも、どこかで見守ってくれている気がした。
グランはプレートを胸元へ戻すと、もう一度だけ願いの塔を見上げた。
塔は今日も静かに夜空へ伸びている。
その姿は何も語らない。
けれど、グランは知っていた。
昨日より確かに、自分の足は前へ進んでいることを。
その小さな一歩を胸に、グランは静かに歩き出した。




