第36話 巣立ち
メイスが唸りを上げた。
鈍い音とともに、ホーンラビットの身体が草の上を転がる。
間髪入れず、もう一匹が横から飛びかかった。
グランは慌てない。
丸盾をわずかに傾ける。
角が盾の縁を滑り、軌道が逸れた。
すれ違う一瞬。
踏み込む。
腰を捻り、メイスを振り抜く。
骨を砕く手応えが腕に伝わり、ホーンラビットは光となって霧散した。
残された二つの魔晶石を拾い上げる。
息は乱れていない。
肩で呼吸をすることもなくなった。
少し前まで苦戦していた相手を、今では冷静に見極められる。
グランは静かに魔晶石を袋へしまった。
その背中を見ていたレイナが、何も言わず歩き出す。
グランも黙って後を追った。
言葉はない。
それでも足取りだけで、目的地が近いことを感じていた。
やがて草原が途切れる。
開けた場所の中央に、一つの祠があった。
古びた石造り。
苔むした柱。
何百年もそこにあり続けたような佇まい。
風は吹いている。
草も揺れている。
だが、その周囲だけは奇妙なほど静かだった。
鳥は鳴かない。
虫の羽音すら聞こえない。
まるで世界が息を潜めているようだった。
祭壇だけは白く、誰かが毎日磨いているかのように塵一つない。
グランは自然と足を止めた。
「……ここが。」
レイナは小さく頷く。
その時だった。
「緊張してるか。」
祠の向こうから声がした。
視線を向けると、三人の冒険者が立っていた。
二人はまだ若い。
新品とは言えない鎧には幾つもの傷が刻まれ、塔で積み重ねた日々を物語っている。
その隣には、壮年の男。
日に焼けた肌。
無数の古傷。
腰に下げた剣は、鞘まで使い込まれていた。
若い青年が苦く笑う。
「……怖いです。」
男は鼻で笑った。
「当たり前だ。」
少女も小さく俯く。
「失敗したら……。」
「失敗するな。」
短い言葉だった。
二人はさらに表情を強張らせる。
男は肩をすくめ、少しだけ笑う。
「だから今日まで鍛えた。」
少年の肩を軽く叩く。
少女の頭をぽんと撫でる。
「前だけ見ろ。」
二人は大きく息を吸った。
「……はい!」
三人は祭壇へ歩み寄る。
教官が先に手を置く。
二人も続いた。
白い光が静かに溢れる。
三人の身体が輪郭から薄れていき、やがて景色へ溶け込むように消えた。
グランは目を見開く。
「消えた……。」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
しばらくして。
祠がもう一度だけ淡く輝く。
現れたのは教官だけだった。
教え子たちの姿はない。
男は祭壇へ向き直る。
口元がわずかに動いた。
「……帰ってこい。」
風に溶けるほど小さな声だった。
それだけ残し、男は一度も振り返らず草原の彼方へ歩いていく。
その背中を、グランは黙って見送った。
レイナも同じだった。
男の姿が見えなくなるまで、何も言わない。
やがて静かに歩き出す。
祠の前で立ち止まり、祭壇を見つめた。
「行くぞ。」
それだけだった。
余計な言葉はない。
教えることも。
背中を押すことも。
もう終わっている。
グランはその背中を見つめる。
木剣を握った初日。
何度転んでも立ち上がらされた訓練。
盾の角度を何度も直された立ち会い。
メイスへ持ち替えた日。
エルドの穏やかな眼差し。
ミリアが巻いてくれた包帯。
思い返せば、ここへ辿り着くまで一人だった日はない。
レイナは祭壇へ手を置いた。
白い光がその身体を包み込む。
姿が消える、その寸前。
「生きて帰れ。」
ぶっきらぼうな一言だけが残った。
そして、光が消える。
広い草原に残されたのは、グラン一人だった。
風が吹く。
草が波のように揺れる。
隣にあった背中は、もうない。
胸の奥が静かに締めつけられる。
それでも、不思議と足は震えなかった。
グランはメイスを握り直す。
丸盾を腕に固定する。
ゆっくりと祠へ歩き出した。
一歩。
また一歩。
石段を上がるたび、胸の鼓動が少しずつ大きくなる。
祭壇の前で足を止めた。
冷たい石へ、そっと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間。
眩い白い光が視界を埋め尽くした。
その光の向こうに待つものを、まだグランは知らない。
ただ一つ分かっていることがあった。
今日、この瞬間。
少年は師の背中を追う者ではなく、自らの足で歩く一人の冒険者になろうとしていた。




