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第32話 積み重ね(後編)

 二頭のグラスウルフが左右へ散る。


 互いに距離を取りながら、獲物を挟み込むように歩き始めた。


 グランは鉄の剣を構えたまま動かない。


 一頭だけを見れば、もう一頭の牙が届く。


 そのことは、もう身体が覚えていた。


 正面の一頭が飛び出す。


 剣で受け流す。


 その瞬間、横からもう一頭が回り込む。


 囲まれる。


 その言葉が頭をよぎる。


 グランは後ろへ下がらなかった。


 草丈の高い場所へ飛び込み、魔物との距離をあえて詰める。


 視界が遮られた一瞬。


 二頭の位置がずれた。


 前へ出た一頭だけが姿を現す。


「そこだ!」


 鉄の剣が振り抜かれる。


 一頭目が光となって消えた。


 残る一頭は単独で飛びかかる。


 もう連携はない。


 落ち着いて身体を流し、すれ違いざまに剣を振るう。


 二つの魔晶石が草の上へ転がった。


 レイナは拾い上げる。


「悪くない。」


 それだけ言って歩き出した。


 その日の帰還後。


 クランハウスではミリアが笑顔で迎える。


「お帰りなさい。」


 エルドも湯飲みを置き、ゆっくりと立ち上がった。


「今日は肩だけか。」


「はい。」


「なら上出来じゃ。」


 その横でレイナが鼻を鳴らす。


「まだ甘い。」


「焦らせるな。」


 エルドは穏やかに笑った。


「昨日より今日。今日より明日じゃ。」


 ミリアは傷を洗いながら頷く。


「今日は昨日より浅い傷ですね。」


 治療を終えると、机へ革籠手と脛当てを並べた。


「着けてみてください。」


 グランは腕を通す。


「剣を抜いてください。」


 抜く。


 腰袋へ当たる。


 ミリアは何も言わず位置だけを直した。


「もう一度。」


 今度は引っ掛からない。


「そうです。」


 優しく微笑む。


「走ることも、抜くことも、全部生きて帰るためです。」


 その言葉に、グランは静かに頷いた。


 それからの日々。


 塔へ潜る。


 帰る。


 傷を治し、翌日また塔へ向かう。


 同じ毎日だった。


 だが、その積み重ねが少しずつ身体を変えていった。


 ビーとの戦いでは、一度撤退も味わった。


 毒が回り、思うように身体が動かなかった。


 レイナは迷わず探索を打ち切った。


「帰る。」


 その日は何も言い返せなかった。


 悔しさだけが残った。


 帰還後。


 ミリアは解毒薬を机へ置く。


「飲んでください。」


 飲む。


「もう一度。」


 空瓶を置く。


「もう一度。」


 解毒薬。


 包帯。


 ポーション。


 革籠手を着けたまま、何度も何度も繰り返す。


「考えてからでは遅いんです。」


 ミリアは穏やかな口調のまま言った。


「身体が覚えるまで続けましょう。」


 数日後。


 再びビーと遭遇する。


 毒針が腕を掠める。


 迷わず解毒薬を取り出す。


 羽音を聞く。


 一匹。


 二匹。


 三匹。


 最後の一匹が光へ変わった時、レイナは小さく頷くだけだった。


「前よりマシだ。」


 その一言が嬉しかった。


 さらに日々は流れる。


 第三層を越え、第四層。


 同じ草原。


 それでも空気は重い。


 草むらが大きく揺れる。


 三頭のグラスウルフ。


 同時に現れた。


 グランは息を呑む。


 正面から戦えば囲まれる。


 逃げるか。


 いや。


 草丈の高い場所。


 風向き。


 三頭の位置。


 頭の中で、一瞬にして繋がる。


(崩せる。)


 グランは一直線に草むらへ駆け込んだ。


 三頭が追う。


 草が視界を奪う。


 先頭の一頭だけが飛び出した。


 鉄の剣を振る。


 一頭目。


 光。


 しかし休む間もない。


 二頭目が牙を剥く。


 受け流す。


 腕が痺れる。


 息が切れる。


 足が重い。


 それでも退かない。


 横へ流し、肩をぶつける。


 体勢を崩した一瞬。


 二頭目も倒れた。


 残る一頭。


 呼吸が苦しい。


 腕は鉛のように重い。


 剣を握る手が震える。


 逃げるか。


 その考えが一瞬だけ浮かぶ。


 だが。


 ここまで積み重ねた日々が頭をよぎる。


 ホーンラビット。


 ウルフ。


 ビー。


 失敗。


 撤退。


 傷。


 包帯。


 革籠手。


 全部が無駄ではなかった。


「……来い。」


 最後の一頭が飛びかかる。


 グランは半歩だけ身体を流した。


 牙が空を切る。


 生まれた隙へ、全身の力を込めて鉄の剣を振り抜く。


 光が草原へ弾けた。


 静寂。


 グランはその場へ膝をつく。


 肩で大きく息をする。


 レイナが近付いてくる。


「最後まで、自分で立ってたな。」


 グランは息を整えながら笑った。


「はい。」


 レイナは小さく頷く。


「……最初の日より、ずっとマシだ。」


 その一言だけだった。


 それで十分だった。


 クランハウスへ戻る。


 ミリアは傷を見て微笑む。


「今日は手当てが楽ですね。」


 エルドも目を細める。


「積み重ねは、嘘をつかん。」


 グランは自室へ戻り、新しく揃えた革籠手を机へ置いた。


 細かな擦り傷が無数についている。


 塔へ来たばかりの頃にはなかった傷だ。


 包帯を取り替える回数は、少しずつ減っていた。


 鉄の剣一本で始まった冒険者としての日々。


 その隣には、革籠手や脛当て、腰袋が静かに並んでいる。


 どれも派手ではない。


 それでも、その一つひとつが、自分を生きて帰らせてくれた。


 グランは革籠手をそっと撫でる。


 明日、この傷はまた一つ増えるだろう。


 その傷を増やしながら、自分もまた少しずつ前へ進んでいく。


 そう信じて、小さく微笑んだ。

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