第28話 帰還
夕陽が、古びたクランハウスを赤く染めていた。
壁の剥がれた白い漆喰も、欠けた石畳も、その光の中では少しだけ柔らかく見える。
玄関の扉が、軋む音を立てて開いた。
「……ただいま」
低く、少し掠れた声。
大きな荷袋を肩に担いだ猫人族の女性が、夕暮れの光を背負って立っていた。
レイナだった。
五日ぶりの帰還である。
「お帰りなさいませ、レイナさん」
ミリアがすぐに出迎える。
レイナは片手を軽く上げると、背負っていた荷袋を床へ降ろした。
鈍い音が玄関に響く。
「さすがに疲れた」
肩を回す。
左腕の義手が、小さく金属音を鳴らした。
「今回は遠かったからな」
そう言って、腰に提げていた革袋を外す。
それをミリアへ放った。
「依頼報酬だ。いつものように頼む」
「承知しました」
ミリアは革袋を受け取り、中身を確認する。
金貨と銀貨が入っていた。
決して軽くはない額。
それは、依頼の危険度をそのまま示しているようだった。
ミリアは表情を変えず、帳簿へ金額を書き込む。
そして金庫へ丁寧に納めた。
「ご苦労じゃったな」
食堂では、エルドが湯飲みを片手に座っていた。
長い髭を撫でながら、帰ってきたレイナを静かに見ている。
レイナはその湯飲みを一瞥した。
「茶じゃ足りねぇ」
棚から酒瓶を取り出し、木のコップへ注ぐ。
琥珀色の酒が夕陽を受け、ゆらりと揺れた。
レイナはコップを口元へ運び、一気に飲み干す。
「……ふぅ」
静かに目を閉じる。
五日間の疲れを吐き出すように、深く息をついた。
「生き返る」
その一言に、ミリアがくすりと笑う。
「五日ぶりのお酒ですものね」
レイナは口元をわずかに緩めるだけで返事はしない。
皿に並んだ料理を一口頬張る。
温かな食事が胃へ落ちていく。
ようやく帰ってきたのだと、体が実感していた。
エルドは湯飲みを机へ置く。
「今回はどうじゃった」
レイナはコップを静かに置き、少しだけ視線を落とした。
「四人組の救助依頼だった」
「場所は二十四層と二十五層の境目」
その一言だけで、食堂の空気が変わる。
エルドは静かに目を細め、ミリアも思わず手を止めた。
二十四層。
二十五層。
その名だけで十分だった。
塔を知る者なら、それがどれほど危険な場所か分かる。
夢を語るだけの者が辿り着ける場所ではない。
腕を磨き、経験を積み、それでもなお命を落とす者がいる階層。
レイナは淡々と続ける。
「着いた時には、一人はもう死んでた」
「残り三人も限界だった」
「あと少し遅けりゃ、三人とも死んでたな」
短い報告。
それだけで十分だった。
願いの塔の厳しさを知る二人には、それ以上の説明など必要なかった。
沈黙が落ちる。
願いの塔では、人が死ぬ。
それは誰もが知っている。
けれど、知っていることと、受け入れることは違う。
塔へ登る者には願いがある。
家族のため。
名誉のため。
金のため。
誰かを救うため。
自分を変えるため。
どんな願いであれ、塔は平等に命を奪う。
エルドは静かに目を閉じた。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
ミリアは胸の前で手を組み、小さく祈りを捧げる。
亡くなった冒険者へ。
そして、生きて帰れた三人へ。
レイナも黙っていた。
ただ酒をもう一口飲み、静かに息を吐いた。
やがて。
重くなった空気を変えるように、レイナが顔を上げる。
「それで」
視線がエルドとミリアへ向く。
「グランはどうしてる」
ミリアは静かに顔を上げた。
「毎日、塔へ向かっています」
「まだ一層ですが、少しずつ討伐数も増えています」
「怪我は」
「擦り傷や切り傷はあります。ですが、大きな怪我はありません」
「休んだか」
「いいえ」
ミリアは少しだけ微笑んだ。
「一度も」
レイナは鼻で笑った。
「……あいつらしいな」
酒をもう一口飲む。
「死ぬほど不器用なくせに、休むことだけは知らねぇ」
エルドも穏やかに笑った。
「五日間で、少しずつ変わってきたぞ」
「剣の構えも、足運びもな」
「ほぉ」
レイナは目を細めた。
「そいつは見ものだ」
その時だった。
玄関の扉が開く音がした。
「ただいま戻りました」
グランの声だった。
食堂に入ってきた少年は、今日もひどく疲れていた。
汗で濡れた黒髪。
擦り傷の増えた鎧。
腰には使い込まれ始めた鉄の剣。
手には、塔で得た魔晶石の小袋。
疲労は隠せていない。
だが。
五日前とは違っていた。
背筋が、少し伸びている。
足取りも、以前よりしっかりしている。
歩くたびに揺れていた重心が、わずかに落ち着いていた。
グランはレイナの姿を見ると、目を見開いた。
「レイナさん」
「よう」
レイナは片手を上げる。
「帰ってきたぞ」
グランはすぐに頭を下げた。
「お帰りなさい」
「依頼、お疲れ様でした」
「あぁ」
レイナは立ち上がった。
椅子の脚が、床を軽く擦る。
ゆっくりとグランの前まで歩く。
そして、何も言わずに全身を見た。
立ち方。
重心。
肩の力。
腰の位置。
視線。
呼吸。
剣の吊り方。
手の開き方。
ほんの数秒。
それだけで、五日間の積み重ねが見えた。
まだ未熟だ。
まだ弱い。
まだ隙だらけだ。
塔の深層で生き残れるような動きでは、到底ない。
けれど。
五日前とは違う。
体が、少しずつ戦いを覚え始めていた。
逃げ方。
踏ん張り方。
剣を握る意味。
それらを、言葉ではなく傷で覚えた立ち方だった。
五日でここまで変わるか。
レイナはそう思った。
だが、口には出さない。
「……少し変わったな」
グランが顔を上げる。
「え?」
「立ち方だ」
レイナは短く言った。
「前より余計な力が抜けてる」
「毎日、剣を振ってたか」
「はい」
「何回だ」
「朝と夜で、合わせて五百回です」
「塔にも」
「毎日行きました」
「休まずか」
「はい」
レイナは呆れたように息を吐く。
「本当に馬鹿真面目だな」
グランは少しだけ困ったように笑った。
「他に、できることがありませんから」
その言葉に、レイナは一瞬黙った。
才能がある者は、近道を選べる。
スキルがある者は、強引に壁を越えられる。
魔術がある者は、届かない場所へ手を伸ばせる。
けれど、グランにはそれがない。
だから歩くしかない。
傷を作り。
息を切らし。
倒れそうになりながら。
それでも、昨日より少し前へ進むしかない。
レイナは、わずかに口元を緩めた。
「……五日前よりはマシだ」
それは褒め言葉ではなかった。
優しい言葉でもない。
けれど、グランにとっては十分だった。
グランは少しだけ目を見開く。
そして、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
声は控えめだった。
だが、どこか嬉しそうだった。
エルドがゆっくりと立ち上がる。
「では、その成果を見せてもらおうかの」
ミリアも静かに頷いた。
「私も拝見いたします」
四人は庭へ出た。
夕焼けが石畳を赤く照らしていた。
古びた庭。
欠けた訓練用の木人。
壁際に立てかけられた木剣。
かつて多くの冒険者が汗を流した場所。
今そこに立つのは、たった四人だけだった。
それでも。
星塔の旅団の庭には、確かに熱が戻り始めていた。
レイナは木剣を一本拾い、グランへ放る。
グランはそれを危なげなく受け止めた。
その手つきを見て、レイナの口元がわずかに上がる。
五日前なら、取り損ねていたかもしれない。
グランは木剣を握り直す。
深く息を吸い。
ゆっくり吐く。
そして、静かに構えた。
レイナも木剣を肩に担ぐ。
「来い」
「……はい」
二人の距離は五歩。
エルドとミリアは、少し離れた場所で見守っている。
五日。
たった五日。
それでも、その五日は決して空ではなかった。
朝に剣を振り。
塔へ向かい。
魔物と向き合い。
傷を作り。
疲れ果てて帰り。
それでも翌日には、また立ち上がった。
木剣を握るグランを見つめながら、レイナは静かに笑う。
その五日間に、嘘はなかった。




