第26話 見え始めたもの
願いの塔へ通い始めてから、数日が過ぎた。
朝。
グランは剣を磨く。
刃についた小さな汚れを布で拭い、革鎧の留め具を確かめ、包帯とポーションの数を確認する。
以前なら、どれも意識しなければ忘れていたことだった。
今は違う。
剣を握る前に、剣を整える。
塔へ入る前に、道具を整える。
それが生きて戻るために必要なことだと、少しずつ身体が覚え始めていた。
ポーションの減りは、最初より少なくなった。
魔晶石を入れる袋は、前より少し重くなった。
それでも、グランが急に強くなったわけではない。
剣はまだ未熟。
足運びも粗い。
スキルを使う冒険者たちのように、魔物を鮮やかに倒すことなどできない。
ただ。
倒れていない。
昨日も。
今日も。
そして、明日も塔へ向かうために、グランは静かに準備を続けていた。
その日の朝、食堂にレイナの姿はなかった。
「レイナさんは?」
グランが尋ねると、ミリアが朝食を並べながら答えた。
「ギルドから捜索依頼が入りました。早朝から出られています」
レイナは塔攻略の前線からは退いている。
けれど、行方不明者の捜索や救助では、今も頼られていた。
「今日は私がご一緒しますね」
「よろしくお願いします」
グランは頭を下げる。
ミリアは穏やかに微笑んだ。
「今日は、少し違うところを見せていただきます」
二人は願いの塔へ向かった。
一階は、変わらず広大な草原だった。
草が風に揺れている。
遠くでホーンラビットが跳ね、さらに向こうでゴブリンが棍棒を引きずっている。
穏やかに見える。
けれど、ここは塔の中だ。
気を抜けば、初心者向けの階層であっても命を落とす。
「探査をお願いします」
「はい」
グランは目を閉じた。
風の流れ。
草の擦れる音。
土を踏む重さ。
獣が隠れる時の、わずかな空気の変化。
フェルン村の山で、父と歩いた日々が脳裏をよぎる。
ルークは多くを語らなかった。
ただ、黙って指で示した。
折れた枝。
浅い足跡。
不自然に揺れる草。
それを見ろ、と。
今、塔の草原で、グランは同じものを見ていた。
「前方にゴブリンが二体」
目を開ける。
「右奥にホーンラビットが三体。さらに奥に、虫型の魔物がいます」
「正解です」
ミリアは小さく頷いた。
「では、行きましょう」
最初のゴブリンは、正面から来た。
棍棒を振り上げ、短い叫び声を上げながら突っ込んでくる。
グランは剣を抜いた。
腕ではなく。
武器ではなく。
足を見る。
腰を見る。
重心を見る。
ゴブリンの身体が沈む。
来る。
棍棒が振り下ろされた。
グランは横へ避ける。
だが、完全には避けきれなかった。
棍棒の先が左腕を掠める。
鈍い痛み。
息が詰まる。
それでも、足は止めなかった。
後ろへ下がれば、もう一体に挟まれる。
グランは踏み込んだ。
剣を振る。
浅い。
けれど、ゴブリンの足が止まる。
もう一歩。
肩口へ斬撃。
さらに一歩。
首元へ剣を滑らせる。
ゴブリンは光へ変わり、魔晶石を残した。
振り返る。
二体目がすでに迫っていた。
受ければ押し負ける。
グランは半歩下がる。
棍棒が空を切った。
その隙に、剣を振り下ろす。
刃が肩に食い込む。
ゴブリンがよろめく。
もう一撃。
光が散った。
魔晶石が草の上に転がる。
グランは息を吐き、左腕を見た。
血が滲んでいる。
浅い。
痛む。
けれど、動く。
「続けられますか?」
ミリアが尋ねた。
「はい」
グランは短く答えた。
それからも探索は続いた。
ホーンラビット。
ゴブリン。
虫型の魔物。
戦うたびに、傷は増えた。
息は荒くなった。
腕は重くなった。
それでも、グランは剣を離さなかった。
気付けば、魔晶石の袋は半分以上埋まっていた。
順調ではなかった。
危ない場面も何度もあった。
ホーンラビットの角が革鎧を裂いた。
虫型の魔物の脚に足を取られ、膝をついた。
ゴブリンの棍棒を避けきれず、肩に痛みが走った。
それでも倒れなかった。
倒れても、立ち上がった。
立ち上がって、また剣を構えた。
最後のホーンラビットは、草むらの中を低く走った。
正面から来るように見せて、途中で視界から消える。
グランは息を止める。
草が揺れた。
右。
身体が先に動いた。
角が脇腹を掠める。
痛みが走る。
けれど、踏ん張った。
着地したホーンラビットが、次に跳ぶ前に。
グランは剣を振った。
刃が首元に入り、魔物は光になった。
魔晶石が落ちる。
それを拾い、袋へ入れた瞬間、重みが手にかかった。
小さな重みだった。
けれど、確かに今日を生き延びた証だった。
「休みましょう」
ミリアが言った。
二人は岩陰に腰を下ろした。
グランは水を飲む。
喉を通る水が、熱を持った身体の奥へ落ちていく。
腕が痛い。
脇腹も痛む。
足も重い。
それでも、まだ立てる。
まだ剣を握れる。
ミリアはグランの傷を見て、静かに包帯を取り出した。
「痛みますか?」
「少しだけです」
ミリアは手を止めた。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「普通の新人なら、少しだけとは言いませんよ」
グランは答えられなかった。
痛くないわけではない。
ただ、山ではもっと寒い日があった。
罠を担いで、泥だらけになって歩いた日があった。
獣を追って転び、膝から血を流した日もあった。
父は手を貸してくれた。
けれど、すぐには抱き起こさなかった。
立てるか。
その目だけで尋ねた。
グランはいつも、自分で立った。
そうすれば、父が少しだけ笑ったから。
「レイナさんなら、きっと褒めません」
ミリアが包帯を巻きながら言った。
「まだ弱い、と言うでしょう」
「はい」
グランは素直に頷いた。
レイナなら、きっとそう言う。
そして、それは間違っていない。
「ですが、私は少し違います」
ミリアは結び目を整え、静かに続けた。
「目が良いです」
「距離の取り方も悪くありません」
「獣を追っていた人の感覚ですね」
グランは、黙って聞いていた。
「それから」
ミリアは顔を上げる。
「丈夫な身体も、立派な才能です」
その言葉は、強く響いたわけではなかった。
風に紛れて消えてしまいそうなほど、静かな声だった。
それなのに。
グランの胸の奥に、深く残った。
才能。
そんな言葉を、自分に向けられる日が来るとは思っていなかった。
十歳の洗礼で、何も与えられなかった。
スキルなし。
その一言は、ずっと胸の奥に沈んでいた。
誰かを恨んだわけではない。
けれど、自分には何もないのだと思っていた。
他の者が当たり前に持つものを、自分だけが持っていない。
それが当たり前になっていた。
でも。
父と歩いた山があった。
雪を踏みしめた朝があった。
罠を担いで坂を登った日があった。
獣の足跡を追い、息を殺して草むらを見つめた時間があった。
母が縫ってくれた服を泥だらけにして、帰ってから叱られた日もあった。
それらは、スキルではない。
魔法でもない。
誰かが授けてくれた力でもない。
けれど、確かにグランの中に残っていた。
この足に。
この目に。
この身体に。
今、塔の中でグランを支えている。
「……ありがとうございます」
グランは小さく言った。
それ以上の言葉は出てこなかった。
胸の中にあるものを、上手く形にできない。
けれど、言わなければならない気がした。
「父さんが」
そこで一度、言葉が止まる。
「山に、連れて行ってくれたからだと思います」
ミリアは何も言わなかった。
ただ、優しく微笑んだ。
その沈黙が、ありがたかった。
休憩を終え、グランは立ち上がる。
身体は重い。
傷も痛む。
だが、剣は握れる。
ミリアが少し離れた場所で、静かに見守っている。
グランは草原を見渡した。
魔物が怖くなくなったわけではない。
強くなったわけでもない。
塔の頂は、まだ遠すぎる。
空の果てよりも遠く思える。
それでも。
初めてここへ来た日より、一歩だけ前へ進めている。
そう思えた。
グランは剣の柄を握り直す。
まだ足りない。
何もかも足りない。
けれど。
何もないわけではない。
この身体が動く限り。
この目が前を見られる限り。
僕は、登り続ける。
風が草原を渡っていく。
グランはその中へ、一歩を踏み出した。




