第17話 噴水の老人②
噴水の水音が静かに響く。
夜風が広場を吹き抜ける。
老人は変わらず願いの塔を見つめていた。
グランも隣に座ったまま。
同じ塔を見上げる。
夜空を貫く巨大な塔。
その姿は昼よりも大きく見えた。
手を伸ばしても届かない。
そんな場所だった。
しばらく。
二人の間に言葉は無かった。
不思議と沈黙は苦にならない。
噴水の音。
遠くの酒場から聞こえる笑い声。
行き交う人々の足音。
夜の街の音が静かに流れていく。
やがて。
グランは口を開いた。
「一つ聞いてもいいですか?」
老人は塔を見たまま頷く。
「何じゃ」
グランは少し迷った。
だが。
結局そのまま聞いた。
「願いの塔を目指していたんですか?」
老人は答えなかった。
ただ。
静かに塔を見ている。
聞いてはいけない事だったかもしれない。
そう思った時だった。
老人は小さく息を吐いた。
そして。
再び塔へ目を向ける。
「……昔の話じゃ」
ぽつりと漏れた声は。
独り言のようでもあった。
グランは何も言わない。
急かさず。
ただ耳を傾ける。
「若い頃は冒険者じゃった」
「仲間もおった」
「皆で塔へ挑んだ」
老人は少しだけ笑った。
懐かしいものを見るような笑みだった。
「強くはなかった」
「有名でもなかった」
「じゃが楽しかった」
短い言葉だった。
だが。
その一言に嘘は無かった。
「毎日が必死じゃった」
「明日の飯代にも困っておった」
「魔物に追い回され」
「依頼主に怒鳴られ」
老人は小さく笑う。
「それでも楽しかった」
その笑顔は。
遠い昔へ戻ったような。
大切なものを思い出したような。
そんな穏やかな笑みだった。
グランは少しだけ分かる気がした。
父と森へ入っていた頃。
狩りは大変だった。
怪我もした。
雨の日もあった。
それでも嫌ではなかった。
好きだったからだ。
何より。
父と一緒だったからだ。
「仲間はどうなったんですか?」
老人の笑みが消える。
しばらく塔を見つめる。
そして。
静かに口を開いた。
「死んだ」
短い言葉だった。
グランは息を呑む。
老人は続ける。
「皆」
「塔で死んだ」
夜風が吹く。
老人の声は静かだった。
怒りも無い。
悲鳴も無い。
ただ事実を語る声だった。
「わしを残してな」
その一言だけが。
妙に重かった。
グランは何も言えなかった。
父を失った日の事を思い出す。
残された者の痛みを。
少しだけ知っていたからだ。
「それで」
グランは静かに尋ねる。
「塔を諦めたんですか?」
老人は小さく頷いた。
「ああ」
短い返事。
「諦めた」
広場に風が吹く。
「もう誰も失いたくなかった」
「仲間を失うのは嫌じゃった」
「残されるのも嫌じゃった」
「だから登るのをやめた」
その言葉に迷いは無かった。
何度も自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。
「後悔していますか?」
気付けば聞いていた。
老人はしばらく黙る。
塔を見上げる。
夜空を貫く巨大な塔。
その姿を静かに見つめる。
そして。
ゆっくり頷いた。
「ああ」
短い返事だった。
「後悔しとる」
夜風が吹く。
「もっと強ければと思った」
「もっと早く気付けておればと思った」
「もっと何か出来たのではないかと思った」
老人は苦く笑う。
「何十年経っても変わらん」
そして。
少しだけ目を細めた。
「皆は最後まで諦めておらんかった」
グランは顔を上げる。
「死ぬその時まで」
「塔の頂を見ておった」
老人は塔を見つめる。
しばらく黙る。
そして。
小さく笑った。
「だから」
「わしだけ先に死ぬ訳にはいかんかった」
その言葉は静かだった。
だが。
重かった。
仲間達の想い。
願い。
夢。
全てを背負ってきた時間が滲んでいた。
再び沈黙が訪れる。
噴水の水音だけが響く。
やがて。
老人はぽつりと呟いた。
「じゃが」
グランは顔を上げる。
「わしは弱かった」
静かな声だった。
「仲間達のようにはなれんかった」
老人は塔を見つめる。
「怖くなったんじゃ」
その一言に。
長い年月を抱えてきた重みがあった。
「だから」
「わしは塔を登る事を諦めた」
言い訳ではない。
誤魔化しでもない。
ただの事実だった。
そして。
老人は続ける。
「ただ」
グランは顔を上げる。
「今でも塔を見てしまう」
その言葉に。
グランは老人を見る。
老人は塔を見ていた。
ただ静かに。
ずっと昔からそうしていたかのように。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
噴水の水音だけが静かに響く。
夜風が吹く。
誰も言葉を発しない。
老人も。
グランも。
ただ塔を見上げていた。
グランは思う。
本当に諦めた人間は。
今でも塔を見上げるのだろうか。
答えはまだ分からない。
だが。
一つだけ分かった事がある。
願いを諦めるという事は。
グランが思っていたより。
ずっと難しい事なのかもしれない。
広場の灯りが石畳を照らす。
願いの塔は夜空の中に静かに立っていた。
高く。
遠く。
手の届かない場所に。




