好きな物を覚えていたい。
水曜日の放課後。
『由奈、今日ってこのあと予定ある?』
帰り支度をしていると、結衣に声をかけられた。
『特にないけど、どうしたの?』
『よかったら、うちに寄っていかない? お菓子を作ろうと思ってるんだけど、一人だと余りそうで』
『お菓子?』
『うん。クッキー。嫌いじゃなければだけど』
『好き!』
思ったより大きな声が出た。
結衣は一瞬きょとんとして、それから楽しそうに笑った。
『ふふっ。じゃあ、決まりね』
少し恥ずかしくなって、私は鞄を持ち直した。
『……そんなに分かりやすかった?』
『うん。すごく』
『忘れて』
『それは無理かも』
結衣はいたずらっぽく笑った。
いつも落ち着いている結衣にそんな顔をされると、なんだか調子が狂う。
結衣の家に着くと、私たちはさっそくキッチンに立った。結衣は手際よく材料を並べ、私は言われたとおりに計量する。
ところが、最初からうまくはいかなかった。
『……結衣、これって何グラム?』
『百グラムだよ』
『これ、百グラム?』
『うん。……あれ、ちょっと多いね』
『えっ、どうしよう!』
『大丈夫。少し戻せばいいから』
結衣は笑いながら、私の手元を覗き込んだ。
『由奈って、意外と不器用?』
『料理はあんまりしないから……』
『そっか。じゃあ、今日は覚えて帰ってね』
『先生、お願いします』
ふざけて頭を下げると、結衣も小さく頭を下げ返した。
『はい。厳しくいきますよ』
そのあとも、生地を混ぜすぎたり、形を整えるのに苦戦したりと、思った以上に時間がかかった。結衣は何度か手を貸してくれたけれど、全部を代わりにやろうとはしなかった。
『もう少し薄くしてみて』
『こう?』
『そうそう。上手になってきたね』
その言葉が、少し嬉しかった。
誰かに教えてもらいながら、一緒に何かを作る。
中学の頃、休日は一人で過ごすことが多かった。自分の好きなことを、自分のペースでやる時間は嫌いじゃなかったし、それなりに楽しかった。
でも、こういう時間を過ごしたことは、あまりなかった気がする。
オーブンにクッキーを入れると、甘い匂いがキッチンに広がった。
『いい匂い……』
『焼きたてはもっとおいしいよ』
結衣はそう言って、紅茶を用意し始めた。
『結衣って、よくお菓子作るの?』
『うん。小さい頃から好きなんだ』
『なんで好きになったの?』
結衣は少し考えた。
『家族に食べてもらうのが好きだったからかな。おいしいって言ってもらえると、また作りたくなるんだよね』
『……そっか』
私はオーブンの中を覗き込んだ。
自分が作ったものを、誰かがおいしいと言ってくれる。
それは、思っていたより素敵なことなのかもしれない。
『由奈は?』
『え?』
『好きなこと。何かある?』
すぐに答えようとして、言葉に詰まった。
好きなことなら、いくつかある。
本を読むこと。音楽を聴くこと。かわいい服を見ること。一人で寄り道すること。
だけど、それを誰かに聞かれることは、あまりなかった。
『……本を読むのは好きかな』
『どんな本?』
『小説。恋愛ものとか、ミステリーとか』
『へえ、いいね。今度おすすめ教えてよ』
『うん!』
答えたあと、自分でも少し驚いた。
好きなものを話すのって、こんなに簡単だったんだ。
もちろん、相手が結衣だからというのもあるのだろう。
でも、それだけじゃない気がした。
しばらくして、クッキーが焼き上がった。
少し形の崩れたものもあったけれど、初めてにしては悪くない。二人でテーブルに並べ、さっそく一つずつ口に運んだ。
『……おいしい!』
『ほんと? よかった』
『これ、私が作ったんだよね?』
『そうだよ』
『なんか信じられない……』
『由奈、さっきからそればっかり』
結衣は笑った。
私も笑いながら、もう一枚手に取る。
帰る頃には、外がすっかり暗くなっていた。
玄関で靴を履いていると、結衣が小さな袋を差し出した。
『これ、持って帰って』
中には、クッキーが何枚か入っていた。
『いいの?』
『もちろん。由奈が作った分もあるし』
『……ありがとう』
『また作ろうね』
私は袋を受け取り、頷いた。
『うん。また作りたい』
帰り道、袋の中でクッキーが小さく音を立てた。
今日、結衣のことを少し知った。
お菓子作りが好きな理由も、誰かに喜んでもらうのが好きなことも。
そして、私にもまだ、誰かに話していない好きなものがたくさんある。
それを少しずつ話していけたらいい。
誰かに合わせるためじゃなく、自分をよく見せるためでもなく。
ただ、知ってほしいと思ったから。
スマホが震えた。
結衣からだった。
『今日は来てくれてありがとう! 次はもっと上手に焼こうね』
私は少し考えてから返信した。
『こちらこそありがとう! 次は形が崩れないように頑張る!』
送信して、ふと笑う。
高校デビューをしたとき、私は誰かに嫌われないように、自分を変えようとしていた。
でも今は、少し違う。
自分の好きなものを、誰かと一緒に楽しめるようになりたい。
そんなことを思いながら、私はクッキーの入った袋を大事に持って帰った。




