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薔薇は満月に咲かない   作者: Rii
第20章:上書きされる温度
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第71話 静かな確信


夜は深く、音を失っていた。


大理石の廊下。足音がひとつ、規則的に落ちる。


迷いのない歩幅。胸の奥に、まだ名前のない違和感。──考える前に、視界が止まる。


扉の前に──影。月明かりに縁取られた輪郭。見間違えるはずもない。


ルカリウスが、そこにいた。


「……」


言葉が出ない。どうしてここに、という問いすら浮かばない。


ただ、本能だけが理解していた。──逃げ場がない。


「……遅い」


低い声が、静かに落ちる。


責める響きではない。感情もほとんど乗っていない。


それなのに、その一言だけで、背中が冷える。


ルカリウスの視線が、ゆっくりとローゼリアをなぞる。


足元から、喉元へ。──そして、止まる。


「また……」


わずかに言葉が途切れる。


ほんの一瞬だけ、呼吸が浅くなる。すぐに、戻る。


「……匂いがついたな」


確かめるように、言い切る声。否定の余地はない。


ローゼリアの心臓が、強く跳ねた。無意識に、一歩下がろうとする。


その前に、逃がさない力で腕を掴まれる。強すぎないのに、振りほどけない。


腕を引かれ、距離が一瞬で消える。


「……っ」


ローゼリアの背が扉に触れる。木の冷たい感触と同時に、逃げ場が完全に塞がれる。


ルカリウスの指が肩に触れ、そのまま首筋をなぞる。ゆっくりと確かめるように。逃がさないように。


動けないまま、視線と指先に絡め取られていく。


ダマスクローズの甘さ。その奥に、冷たいシダーが濃く香る。前より、確実に濃い。


ルカリウスの喉が感情を飲み込むかのように鳴る。


言わない。問い詰めない。けれど本能が告げていた。


──触れられている。


自分以外の気配が、まだはっきりと残っている。


ローゼリアを強く抱き寄せる。


唇が、ローゼリアの耳元に触れる。そのまま頬へ。ゆっくりと辿って──唇の上で、止まる。


触れる直前で、止まる。ほんの一瞬。


──分かっている。ここに何が残っているのか。


誰のものなのかも。


それでも、離れる理由にはならなかった。


ほんのわずかに唇と唇が触れ、ルカリウスの動きが止まる。


違和感。触れた瞬間、確信に変わる。


──違う。


ルカリウスの指が、ローゼリアの唇をなぞり、ゆっくりと唇を押し開く。そのまま奥へと指を押し入れていく。


「んんっ……」


柔らかいはずの場所に、わずかな引っかかり。裂けている。そこで指が止まる。


「……中まで、か」


低い声が落ちる。


ローゼリアの唇から抜いた指先を、ルカリウスの唇が触れる。残った感触を、確かめるように。


その動きが妙に恥ずかしくて、ローゼリアの声が小さく溢れた。


「や………」


見逃せば気づかないほどの傷。だがそこに残るのは、微かな血の気配と、他人の侵入を告げる沈黙。


空気が、静かに凍る。理解したうえで、──選ぶために。


「……宣戦布告か?」


怒りではない。静かすぎる声だった。


その静かさが、怖い。その一言だけで温度が変わる。


ルカリウスは目を閉じる。ほんの一瞬だけ。理性が最後に息をする。


そして、開く。紫の奥で、赤が細く灯る。


「……残ってるな」


ローゼリアの肩を抱く腕が、わずかに強くなる。


「なら、消す」


その声に、迷いはもうなかった。今度は、止まらない。


唇が重なる。


最初は浅く、静かに。けれどすぐに、深くなる。確かめるためではない。優しさだけで触れるためでもない。


──残されたものを、消すために。


ローゼリアの呼吸が乱れる。逃げるより先に、身体がほどける。


「ル……カ」


甘く崩れるその名に、ルカリウスは答えない。ただ、深く触れる。選ぶように。


舌が触れ合う。息が混ざる。その奥にまだ残る、わずかな違和感。


理性が遅れる。


「……全部、塗り替える」


低く落ちる声。宣言だった。


さっき指でなぞった舌先の傷に舌が触れる。ゆっくりと確かめるように。けれど今度は、ためらいなく。


「……ここだな」


わずかに、牙が触れる。押し込む前に、ほんの一瞬だけ止まる。


──それでも、やめない。


「あ……っ」


ローゼリアの身体が小さく震える。


痛みより先に、熱が広がる。指に力が入らない。


逃げれるはずの身体が、逆に引き寄せていた。


傷の上から直接、存在ごと塗り替えられていくみたいに。


──甘い。


喉の奥で、熱が落ちる。


そこにあったはずの気配が、溶けていく。代わりに、強く残るものがある。


腕が深く回る。逃がさないためじゃない。もう、戻さないために。


唇が離れることなく、熱だけが続く。押し付けられる体温に逃げ場がなくなっていく。


それなのに、その中が一番、落ち着いていた。


ローゼリアがルカリウスの首に縋るようにしがみつく。


──止める理由が、完全に消えた。


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