第71話 静かな確信
夜は深く、音を失っていた。
大理石の廊下。足音がひとつ、規則的に落ちる。
迷いのない歩幅。胸の奥に、まだ名前のない違和感。──考える前に、視界が止まる。
扉の前に──影。月明かりに縁取られた輪郭。見間違えるはずもない。
ルカリウスが、そこにいた。
「……」
言葉が出ない。どうしてここに、という問いすら浮かばない。
ただ、本能だけが理解していた。──逃げ場がない。
「……遅い」
低い声が、静かに落ちる。
責める響きではない。感情もほとんど乗っていない。
それなのに、その一言だけで、背中が冷える。
ルカリウスの視線が、ゆっくりとローゼリアをなぞる。
足元から、喉元へ。──そして、止まる。
「また……」
わずかに言葉が途切れる。
ほんの一瞬だけ、呼吸が浅くなる。すぐに、戻る。
「……匂いがついたな」
確かめるように、言い切る声。否定の余地はない。
ローゼリアの心臓が、強く跳ねた。無意識に、一歩下がろうとする。
その前に、逃がさない力で腕を掴まれる。強すぎないのに、振りほどけない。
腕を引かれ、距離が一瞬で消える。
「……っ」
ローゼリアの背が扉に触れる。木の冷たい感触と同時に、逃げ場が完全に塞がれる。
ルカリウスの指が肩に触れ、そのまま首筋をなぞる。ゆっくりと確かめるように。逃がさないように。
動けないまま、視線と指先に絡め取られていく。
ダマスクローズの甘さ。その奥に、冷たいシダーが濃く香る。前より、確実に濃い。
ルカリウスの喉が感情を飲み込むかのように鳴る。
言わない。問い詰めない。けれど本能が告げていた。
──触れられている。
自分以外の気配が、まだはっきりと残っている。
ローゼリアを強く抱き寄せる。
唇が、ローゼリアの耳元に触れる。そのまま頬へ。ゆっくりと辿って──唇の上で、止まる。
触れる直前で、止まる。ほんの一瞬。
──分かっている。ここに何が残っているのか。
誰のものなのかも。
それでも、離れる理由にはならなかった。
ほんのわずかに唇と唇が触れ、ルカリウスの動きが止まる。
違和感。触れた瞬間、確信に変わる。
──違う。
ルカリウスの指が、ローゼリアの唇をなぞり、ゆっくりと唇を押し開く。そのまま奥へと指を押し入れていく。
「んんっ……」
柔らかいはずの場所に、わずかな引っかかり。裂けている。そこで指が止まる。
「……中まで、か」
低い声が落ちる。
ローゼリアの唇から抜いた指先を、ルカリウスの唇が触れる。残った感触を、確かめるように。
その動きが妙に恥ずかしくて、ローゼリアの声が小さく溢れた。
「や………」
見逃せば気づかないほどの傷。だがそこに残るのは、微かな血の気配と、他人の侵入を告げる沈黙。
空気が、静かに凍る。理解したうえで、──選ぶために。
「……宣戦布告か?」
怒りではない。静かすぎる声だった。
その静かさが、怖い。その一言だけで温度が変わる。
ルカリウスは目を閉じる。ほんの一瞬だけ。理性が最後に息をする。
そして、開く。紫の奥で、赤が細く灯る。
「……残ってるな」
ローゼリアの肩を抱く腕が、わずかに強くなる。
「なら、消す」
その声に、迷いはもうなかった。今度は、止まらない。
唇が重なる。
最初は浅く、静かに。けれどすぐに、深くなる。確かめるためではない。優しさだけで触れるためでもない。
──残されたものを、消すために。
ローゼリアの呼吸が乱れる。逃げるより先に、身体がほどける。
「ル……カ」
甘く崩れるその名に、ルカリウスは答えない。ただ、深く触れる。選ぶように。
舌が触れ合う。息が混ざる。その奥にまだ残る、わずかな違和感。
理性が遅れる。
「……全部、塗り替える」
低く落ちる声。宣言だった。
さっき指でなぞった舌先の傷に舌が触れる。ゆっくりと確かめるように。けれど今度は、ためらいなく。
「……ここだな」
わずかに、牙が触れる。押し込む前に、ほんの一瞬だけ止まる。
──それでも、やめない。
「あ……っ」
ローゼリアの身体が小さく震える。
痛みより先に、熱が広がる。指に力が入らない。
逃げれるはずの身体が、逆に引き寄せていた。
傷の上から直接、存在ごと塗り替えられていくみたいに。
──甘い。
喉の奥で、熱が落ちる。
そこにあったはずの気配が、溶けていく。代わりに、強く残るものがある。
腕が深く回る。逃がさないためじゃない。もう、戻さないために。
唇が離れることなく、熱だけが続く。押し付けられる体温に逃げ場がなくなっていく。
それなのに、その中が一番、落ち着いていた。
ローゼリアがルカリウスの首に縋るようにしがみつく。
──止める理由が、完全に消えた。




