第69話 計算の外側
研究塔の最奥。窓はない。光も、温度も、外界とは切り離されている。
盤の上で、三つの波形が重なっていた。
ローゼリア。ルカリウス。セラフィオン。
円は、ほぼ閉じている。──ほぼ、だ。
「……足りていない」
セラフィオンは低く呟く。
ほんの僅か、閉じきらない隙間がある。その隙間が、負荷を生む。
ローゼリアの減少は止まりきらない。ルカリウスへの再配分も、完全には安定していない。
そして──その歪みは、すべてセラフィオンへと流れてくる。
指先が冷たい。保存血は増やしている。補填も計算通りだ。それでも、足りない。
理論は正しい。だが現実は、理論に追いつかない。
「……もう一段」
必要だ。式を完成させるための、最後の接触。
視線が、中央の波形に落ちる。
足りないのは──ローゼリア。
静かに息を吐く。これは選択ではない。計算だ。
「……必要な処置です」
誰に言うでもなく、そう定義する。
──その言葉だけが、唯一の支えだった。
「フィオ?」
扉の向こうから、声がした。タイミングが良すぎる。
あるいは──最初から、そうなるように組まれていたのか。
「入ってください」
平坦な声と同時に扉が開く。
ローゼリアが、いつものようにそこにいる。何も知らない顔で。
「顔色が悪いわ」
「問題ありません」
即答する。“今は”問題ではない。それだけだった。
ローゼリアが近づく。迷いなく、距離を詰める。
その一歩ごとに、盤が脈打つ。強い共鳴。以前とは比較にならない。
「……ねえ」
ローゼリアの手が盤へと伸びる。そして触れた、その瞬間。
──血がはっきりと鳴った。
セラフィオンの呼吸が止まる。
(これは観測ではない、干渉だ)
ローゼリアの体温が、直接流れ込んでくる。甘くはない。深い、沈むような密度。
円環が、一瞬だけ完全な形を描く。
あと一歩。それだけで閉じる。
理性が、遅れる。
「……フィオ?」
ローゼリアが名を呼ぶ。それが、決定だった。
セラフィオンは逃がさない力でローゼリアの腕を掴む。身体が、わずかに揺れる。
「……どうしたの?」
戸惑いの声。恐怖はない。その警戒のなさが、いちばん危ういのに。
「少しだけ、観測に協力してください」
声は冷静だ。あくまで、処置。あくまで、必要な行為。そう定義する。
「え……」
言葉になる前に距離が消える。ジュニパーに混じるホワイトティー、その奥にシダー。
迷いなく、奪うように唇が触れた。呼吸が乱れ、舌が絡む。
「んっ……」
その奥で、ほんの一瞬。──柔らかな痛みが走る。鉄の味が、わずかに混ざった。
だが、それが何だったのか。セラフィオン自身、意図していなかった。牙を立てたつもりはなかった。
ローゼリアも気づかないまま、舌の奥で、血がわずかに甘くほどけた。
ただ──必要だから、触れる。そのはずだった。
血が、強く共鳴する。
喉の奥へ、熱が流れ込む。
──理解が、遅れる。
……遅すぎる。
ほんの僅か。ほんの一瞬。
それでも確実に、何かが流れ込んでいた。
「あ……」
小さく息が漏れる。
言葉にならないまま、揺れる。
唇が離れる。距離が戻る。
──もう遅い。
戻ったはずの距離は、もう同じではなかった。




