第67話 熱の行き先
満月は、まだ遠い。
それでも。血だけが、先に何かを知っているようだった。
朝の淡い光がカーテン越しに落ちている。ローゼリアは目を覚ましたまま、しばらく動かなかった。
胸の奥が、妙に軽い。軽いのに──満たされている。
昨夜の余韻。唇に残る微かな痛み。体温。匂い。すべてが、まだ体の内側に留まっている。
指先で、自分の手首に触れる。薔薇の痣はまだ浮かんでいない。けれど、もうすぐ浮かぶのがわかる。
「……熱い」
ほんの一瞬だけ。脈に合わせて、内側からじんわりと温度が滲む。
怖い感覚ではない。むしろ逆だ。落ち着く。
呼吸が深くなる。何かに包まれているような安心感。理由は分かっている。
(──ルカ)
名前を思い浮かべただけで、体の奥がわずかに応える。
血が、引かれるように静かに流れる。その方向が分かる。無意識に、そちらへ歩き出しそうになるほどに。
「……おかしいわ」
小さく笑う。冗談のように。けれど体は、ほんのわずかに迷っていた。
恋じゃない。もう、それだけでは足りない。愛よりももっと、深い何か。
血が覚えてしまったみたいに。
◇◇◇
ルカリウスは、いつもより早く目を覚ましていた。
理由は分かっている。眠りが浅い。体の奥が、落ち着かない。
満月はまだだ。暴走の兆候もない。理性は正常。思考も問題ない。
それでも──
「……近い」
呟く。部屋の空気が、微かに変わる。ローゼリアの匂い。
まだ姿はない。だが分かる。距離。方向。どこにいるか。
ここ数日で、感覚が明らかに鋭くなっていた。
匂いだけじゃない。鼓動。血の流れ。微かな体温。意識しなくても拾ってしまう。
ドアの向こうで、気配が止まる。軽いノックの後に、ゆっくりと扉が開いた。
ローゼリアが立っている。視線が合う。その瞬間、喉の奥が熱を持つ。
「……早いな」
いつも通りの声。落ち着いた音。
「なんとなく、目が覚めたの」
嘘ではない。けれど理由は違う。ローゼリアは何も言わず、距離を詰めてくる。
その一歩ごとに、理性が削れるのが分かる。
止めるべきだ。分かっている。だが──言えない。
(……来るな)
そう言えばいいだけなのに。喉が、動かない。
ローゼリアが目の前に立つ。触れていないのに、体温が伝わる距離。
「ルカ?」
名前を呼ばれる。それだけで、奥が揺れる。腕が動く。意識より先に。
ローゼリアを引き寄せていた。抱きしめる。抱きしめたまま、動かない。
それだけで済むはずだった。けれど、喉の奥で熱が弾けた。
ローゼリアの首筋が、すぐそこにある。白い肌。薄く透ける血管。
甘い香りが誘う。強く。抗えないほどに。
「……っ」
息が、乱れる。理性が遅れる。無意識に顔が寄る。触れる寸前まで。牙が、わずかに覗く。
「ルカ……?」
その声で、止まる。ぎりぎりで。触れていない。噛んでいない。それでも。
「……来るな」
今度は、ちゃんと声が出た。遅すぎる制止。腕は、まだ離さないまま。
強すぎない。けれど、離さない力。
「……どうしたの?」
「……何でもない」
嘘だ。全部分かっている。近づけば危ない。
離れれば──もっと危ない。
そのどちらも選べない。だから。抱いたまま、動かない。
それが今できる、唯一の選択だった。




