第65話 匂いの違い
夜。石造りの廊下は静かだった。
ローゼリアは、いつも通りルカリウスの部屋へ向かう。胸の奥が、ほんの少しだけ熱い。理由は考えない。
扉を開けると、ルカリウスは窓辺に立っていた。振り返る。紫の瞳が、ローゼリアを映すとすぐに柔らかくなる。
ローゼリアが近づいた瞬間、空気がわずかに変わった。ルカリウスの視線が止まる。一拍。二拍。
「……匂いが違う」
それだけだった。責める声ではない。ただの事実。
ローゼリアの心臓が跳ねる。黙ったまま、ルカリウスを見上げる。
ルカリウスは一歩近づく。指が肩に触れ、ゆっくりと首筋をなぞる。確かめるように。
ダマスクローズの甘さ。微量のバニラ。その奥に──ほんのわずかに混じる、冷たいシダー。
ルカリウスの喉が、ひとつ鳴った。
言わない。問い詰めない。だが本能は、はっきりと知っている。触れられた。自分以外の血が、わずかに共鳴している。
腕が自然に回る。ローゼリアを抱き寄せる。少しだけ、強く。
「ルカ……?」
「……観測室か」
低い声。否定の余地を残す響き。けれど胸の奥では、嫉妬が静かに燃えていた。
唇がローゼリアの耳元へ触れる。
「上書きする」
その瞬間、ルカリウスの左目の奥で赤が一瞬だけ灯った。すぐに沈む。だが抱く腕は、ほんのわずか強くなる。
ローゼリアの指がルカリウスの胸を掴む。そして唇が重なった。
最初は、静かだった。けれどすぐに深くなる。確かめるキスではない。奪い返すような、長い口づけ。
ローゼリアの息が揺れる。ルカリウスの喉奥が低く鳴った。
甘い。いつもより甘い。その奥に残る、ほんのわずかな他の血の気配。理性が遅れる。
牙が、わずかに下唇を掠める。小さな赤が滲む。
その瞬間、ルカリウスの瞳の奥が熱を持つ。舌が触れる。止まらない。そのまま──吸う。首ではない。唇から。ゆっくりと、深く。
「あ……」
小さな声が漏れる。痛みではない。熱い。身体の奥が、溶けるように緩む。血が混ざる。甘さが増す。
ルカリウスの呼吸が荒くなった。思考ではない。本能だった。ローゼリアの血の中に、自分の匂いを刻む。
ようやく唇が離れる。ルカリウスの唇の端に、赤が残る。瞳の奥にはまだ、わずかな赤が灯っていた。
「……」
ルカリウスは無言のまま、目線だけを逸らす。
ローゼリアの呼吸は甘く乱れている。
「……ルカ」
名を呼ぶ声が溶ける。ルカリウスは額を重ねる。鼻先が触れる。匂いを深く吸い込む。
さっきまであった冷たい残滓は、ほとんど消えていた。自分の匂いが強い。満足したわけではない。
一瞬だけ、確かめるように息を吸う。それでも、確信する。
「戻った」
遠くで。三点構造が、静かに震えていた。




