第64話 理性の崩落
滴下音が、まだ続いている。
ぽたり。ぽたり。
「あなたが、彼を選ぶ前に終わらせるべきだった」
その言葉が、まだ空気の中に残っていた。理性の奥に隠していた本音。遅すぎた嫉妬。
ローゼリアの胸が、静かに痛む。怒れない。責めることもできない。理解してしまうからだ。
あの夜、セラフィオンは王家を守った。けれど同時に、自分で歪ませた未来に、自分自身まで巻き込まれていた。
ローゼリアは、ゆっくりと歩み寄った。点滴の管が、かすかに揺れる。青い瞳がわずかに警戒する。拒絶を待っている目だった。
それでもローゼリアは腕を伸ばした。セラフィオンを、抱きしめる。
冷たいはずの身体が、わずかに強張る。その震えが、伝わってくる。この人はずっと、血ではなく心を削ってきたのだと、ローゼリアは知っている。
「……近づかないでください」
低い声。拒絶ではない。崩れそうな声だった。
「私は、あなたから赦される立場ではない」
それでもローゼリアは離れない。
もしルシエルが生きていたなら。ローゼリアは王女のままで、セラフィオンは婚約者のままだったのかもしれない。誰も傷つかない、そんな優しい未来も確かにあった。
ローゼリアは血を削る。セラフィオンは心を削る。そしてルカリウスだけが、何も知らないままここにいる。
でも、それでいい、とローゼリアは思う。
「フィオ」
名を呼ぶ。それだけで、理性に小さな亀裂が入る。
「ひとりで抱えないで」
その言葉が、一番危険だった。
セラフィオンの指が、ローゼリアの背を掴む。衝動。理性が、遅れる。
次の瞬間、引き寄せていた。
距離が消える。迷いなく、奪うように唇が触れた。ジュニパーの冷たい青さが、わずかに揺らぐ。
理性を越えたキスだった。
ローゼリアの呼吸が止まる。拒まない。拒めない。セラフィオンの震えが、あまりにも正直だったから。
奪いたくて殺したわけじゃない。守るために選んだ。それでも欲しかった。その矛盾が、震えとして伝わってくる。
血が、かすかに反応する。甘くはない。苦い。それでも、熱い。
吸えば、完成する。三点式は完全になる。ローゼリアは減らない。ルカリウスの負荷も消える。合理。完璧な式。
それでも──
吸わない。理性が、最後の一線を守っていた。
唇が離れる。青い瞳が揺れている。──壊れかけの観測者。
ローゼリアの指が、そっと頬に触れた。
「……私は、ルカを愛してる」
静かな告白。逃げない。それでも。
「でも、あなたの気持ちも、わかってしまう」
それが、一番残酷だった。
セラフィオンの呼吸が、崩れる。赦されたわけでもない。選ばれたわけでもない。それでも──拒絶されなかった。
それだけで、理性はもう戻らない。
滴下音が止まる。管の中の赤が、ゆっくりと揺れた。
三点構造は、さらに深く沈む。甘い均衡は、崩れない。
それでも確実に、ひびが入った。




