第63話 静脈の均衡
研究塔の最奥。窓はない。月も入らない。
淡い蝋燭の光だけが、冷たい石壁を照らしていた。静寂の中に、規則的な音が落ちる。
ぽたり。ぽたり。
赤い液体が、細い管を伝って落ちていく。
盤ではない。銀盆でもない。セラフィオンの腕へ、直接。
袖をまくった白い腕に、細い針が刺さっている。血は外へではなく、内へ。吸血族の保存血。観測用に純化された、王族性を含まないただの血だ。それを、静脈へ直接補填している。
星読みの盤は、机の上で静かに脈打っていた。三点構造。中心にローゼリア、左にルカリウス、右にセラフィオン。微弱だが、確かに成立している。そして右点は、わずかに摩耗している。
「……これでいい」
低く呟く。
ルカリウスが受け取った王族性の負荷。ローゼリアから移動した微量の再配分。その歪みを吸収しているのは自分だ。理論上、想定内。理性はそう言う。
だが、指先が冷たい。視界の端が、ほんの少し揺れる。
そのとき。
「……フィオ?」
静かな声。振り返る前に、気配で分かる。ローゼリアだ。
セラフィオンの呼吸が、ほんの一拍だけ止まる。
ローゼリアは扉の前に立っていた。視線は、針と管へ落ちている。滴る赤。
「それ……何?」
問いは柔らかい。責めてはいない。ただ、知らないものを見る瞳だった。
吸血の形は様々だ。──これは、そのどれにも当てはまらない。
「保存血です」
セラフィオンは迷わず答える。淡々と。
「吸血族の血を純化したもの。……あなたの減少値を安定させるための補填です」
嘘ではない。
ローゼリアの鼓動が、わずかに速くなる。
「……私の?」
「三点構造は成立しています。あなたの王族性は崩壊ではなく再配分されている。その歪みを均す役割が必要でした」
一拍置いて、視線を上げる。
「だから、私が引き受けています」
その言葉は合理だった。だが手は、震えていた。針の周囲に、わずかな赤が滲む。それでもセラフィオンは動かない。痛みは問題ではない。
「……この歪みは、私が生んだものだ」
青い瞳は静かなまま、逃げない。
「なら、私が引き受けるのが筋でしょう」
ローゼリアの睫毛が、わずかに揺れる。
その言葉が理屈ではなく、懺悔に近い温度を帯びていることに、気づいてしまったからだ。
ローゼリアは、ゆっくりと近づいた。止められない。管を辿り、その先の腕へ指が触れる。
その瞬間、血の奥で何かが弾けた。
──赤い雪。ルカリウスが、倒れる。矢。血。そして──命じた声。
「フィオ……あなたが……」
声が、震える。知ってしまった。あの赤い雪の夜に、誰が命じたのかを。
セラフィオンは目を逸らさなかった。青い瞳は、逃げない。
「……彼は王座に近づきすぎた。混血でありながら、王族性に干渉できる血を持っていた。均衡が崩れる可能性があった」
理路整然。完璧な合理。
「私は、王家の安定を優先した。……それだけです」
嘘ではない。だが、声がかすれていた。
ローゼリアの胸が締めつけられる。
「私が禁忌を使うとは、予測していなかった」
その言葉は本音だ。もし予測していたなら──セラフィオンは違う選択をしたのだろうか。
青い瞳が、わずかに揺れる。そして。ほんの一瞬だけ。
「あなたが、彼を選ぶ前に」
喉が詰まる。理性が、遅れる。
「終わらせるべきだった」
言ってしまう。
空気が凍る。それは合理ではない。私情。嫉妬。遅すぎた本音。
セラフィオンの指が、わずかに震えた。
「……ですが」
声が低く落ちる。
「あなたが彼を選んだ以上、私は観測者でいるべきだった」
理性が戻ろうとする。だがもう遅い。
ローゼリアは、全部聞いてしまった。合理も。本音も。




