第62話 静かに始まる変異
夜は、まだ満ちていない。
王宮の回廊を、静かな風が抜けていく。月は細く、淡い光を石床へ落としていた。満月までは、まだ数日ある。
──それなのに。ルカリウスは足を止めた。
左目の奥が、わずかに脈打つ。痛みではない。暴走でもない。ただ、血が静かに騒ぐ。熱はすぐに引いた。ほんの一瞬。だが、確かにあった違和感。
満月の気配には、まだ遠い。本来なら、こんなふうに血が先に目を覚ますことはない。
胸の奥で、何かがゆっくりと動き始めている。呼ばれているような、引かれているような、言葉にならない感覚。
ルカリウスは無意識に振り返った。
回廊の向こう。月明かりの中に、ローゼリアがいた。
「ルカ?」
翡翠の瞳が、静かに瞬く。
その瞬間、匂いが少しだけ変わる。ダマスクローズ。アイリス。そして、最近強くなった甘さ。ルカリウスの呼吸が、わずかに止まる。
吸血していない時でさえ、彼女の血が呼んでくる。王族性が、静かに馴染み始めている。
ローゼリアが一歩近づく。その距離。その体温。その匂い。喉の奥が熱くなる。衝動ではない。もっと深い、本能に近い何かだ。
「ルカ?」
ローゼリアが首を傾げる。ルカリウスはゆっくりと息を吐いた。
「……なんでもない」
まだ、問題とは呼べない。ただ──少しずつ、血が変わり始めている。
ローゼリアはそれ以上聞かなかった。ただ静かに近づいて、彼の袖をそっと掴む。
「顔色が悪いわ」
「そう見えるか」
「少しだけ」
月明かりの下で、二人の影が近づく。ルカリウスはローゼリアを見下ろす。今はまだ、赤は沈んでいる。だが奥底で、確かに何かが目を覚まし始めていた。
◇◇◇
その頃。研究塔の最上階では、星読みの盤がかすかに揺れていた。
セラフィオンの指が止まる。
波形は安定している。崩壊もない。暴走もない。それなのに、盤の中央にごく薄い円が浮かび上がる。まだ閉じていない。けれど──昨日より濃い。
「動いている……」
低く漏れる。満月はまだ先だ。それでも式は、静かに深く沈み始めている。血が、自律している。
理論ではまだ説明しきれない。だが直感だけは告げていた。
──次の満月は、違う。
もう、誰も同じ場所には戻れない。
◇◇◇
同じ頃。王宮の自室のバルコニーから、エリオは夜空を見上げていた。
ポケットの中で、懐中時計の秒針が鳴る。カチ。その音が、ほんの一拍だけ揺れた。
エリオは目を細める。
「……早いな」
誰に言うでもなく呟く。遠くの城を見つめる。金の瞳が、静かに細くなった。
「まあ、いいか。なるなら」
それから、風に紛れるほどの声で言った。
「ちゃんと王になりなよ」
夜風がそよぐ。その言葉が届くはずもないのに、──ルカリウスの左目の奥が、ほんの一瞬だけ熱を持った。




