第60話 橋の上、観測される恋
王族の船が、水路をゆっくりと進んでいく。絵の中を滑るみたいに。
橋の上。エリオは欄干にもたれながら、その船を眺めていた。
隣には、黒髪に眼鏡の男。アルベリク・ノア。──人間の画家。膝の上にはスケッチ帳。細い指が、静かに鉛筆を動かしている。
「……動かないでください。今、いい構図なんです」
エリオは覗き込む。
「え、僕を描いてる?」
「描いてます」
「勝手に?」
「はい」
エリオはくすりと笑う。
「じゃあ、売れたらモデル料貰わないとなぁ」
アルベリクは手を止めない。
「全部あなたが買うでしょう」
「バレてる」
「いつもそうじゃないですか」
「投資だもん」
「甘い投資ですね」
「だってアルの絵、好きだし」
そう言いながら、アルベリクの肩に軽く顎を乗せる。柑橘の香りがふわりと弾けた。
アルベリクの手が止まる。
「……くすぐったい」
「照れてる?」
「描きにくいだけです」
けれどその声は、少しだけ柔らかい。
エリオはくすくす笑いながら視線を水路へ戻した。
「見て」
王族の船の上に、ローゼリアとルカリウス。そして──唇が触れる。
橋の上で、アルベリクがわずかに息を止めた。
「……王女様」
「うん。僕の従姉妹」
アルベリクは少し沈黙する。
「……随分、堂々としていますね」
「見せてるんだよ。ルカ兄が」
その瞬間。カチ。小さな音。エリオの指先が止まる。ポケットの中の懐中時計。秒針が──一拍だけ、遅れた。
「……あれ」
アルベリクが顔を上げる。
「どうしました?」
エリオの視界が、ほんの一瞬だけ揺れた。
花の満ちる水路。赤い花びら。王族の船。その景色が突然、白に染まる。
雪。静かな夜。そして、赤。白い雪の上に広がる血。ローゼリアの右手首。咲いている。
深紅の薔薇。──もう、戻らない形で。
エリオの呼吸が止まる。
早い。未来が、近すぎる。
「エリオ?」
アルベリクの声で視界が戻る。花びらが水面を流れ、王族の船はまだゆっくりと進んでいる。ローゼリアは笑っている。ルカリウスも、まだ知らない。
エリオは瞬きをして、すぐにいつもの笑顔を作った。
「なんでもないよ」
軽い声。けれどポケットの中で、懐中時計を握る指が少しだけ強くなる。
「……顔色が悪い」
「えー、そう?」
「無理をしている顔です」
エリオは笑った。それからふいに、アルベリクの腕に抱きつく。
「アル」
「はい」
「このまま動かないで」
アルベリクは少し驚いたが、何も言わない。エリオの頭が肩に寄る。柑橘と花蜜の香り。そして、ほんの少しの粉砂糖のような甘さ。
「……描きにくい」
「嘘」
「本当です」
「でも好きでしょ」
アルベリクは少しだけ笑う。
「……ええ」
視線を水路へ戻す。王族の船は橋の下を通り、ゆっくりと遠ざかっていく。花びらが赤い道を作りながら流れていく。
エリオはしばらくその背中を見ていた。ポケットの中で懐中時計が小さく鳴る。カチ。
「……さて」
アルベリクの腕を軽く引く。
「行こっか」
「どこへ?」
「デートの続き」
アルベリクが少しだけ笑う。
「まだ途中でしたね」
二人は橋を離れる。色が流れる水路には、もう王族の船は見えない。ただ花びらだけが、静かに流れていた。




