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第58話 甘い水面、戻れない味


舟はゆっくりと水路を進んでいた。


櫂の音もほとんど聞こえない。ただ水が揺れ、深紅の花びらが流れていく。王都の風は穏やかだ。それでも、ローゼリアの胸の奥はどこか静かに高鳴っていた。


こんな時間は久しぶりだった。王女でもなく。契約でもなく。ただ、ルカリウスと並んでいる時間。


「リア」


低い声。振り向くと、ルカリウスの瞳がこちらを見ていた。紫の瞳。その奥で、ほんのわずかに赤が揺れている。


「どうしたの?」


「……匂いが変わった」


ローゼリアはくすりと笑う。


「それ、この前も言ってた」


「違う」


ルカリウスは小さく首を振る。


「今日は、甘い」


温度を含んだ風が吹く。花びらがふわりと二人の間を落ちていく。


ローゼリアは少しだけ息を吐いた。


「……確かめてみる?」


からかうような声音。けれどルカリウスの表情は変わらない。むしろ、静かに近づく。


「いいのか」


「恋人でしょ?」


その一言で、二人の距離が消えた。


ルカリウスの指が、ローゼリアの顎に触れる。優しい。剣を扱う騎士とは思えないほど。


「痛くしない」


低い声。それは誓いみたいだった。


ローゼリアは目を閉じる。首筋に、温かい吐息。それから──ほんのわずかな痛み。牙が皮膚を裂く。けれどそれは一瞬で、すぐに熱が広がった。


甘い。体の奥がゆっくりと温まっていく。


花びらが水面を流れる。深紅が揺れる。その色と同じ赤が、今ルカリウスの唇に触れている。けれど彼は深く吸わない。ほんの少しだけ。まるで味を確かめるみたいに。


やがて、ゆっくりと離れた。ルカリウスの瞳がほんの一瞬だけ赤く灯り、すぐに消える。


「……甘い」


ローゼリアは少し息を乱しながら笑う。


「そんなに?」


「前より、甘い」


ルカリウスは手の甲でローゼリアの首元をそっと押さえる。血はもう止まっていた。


「……もう戻れないな」


ルカリウスは独り言のように呟く。──知らなかった頃には、もう戻れない。


ローゼリアは水面を見つめる。花びらがゆっくりと流れていく。赤い流れ。その景色があまりにも綺麗で、少しだけ胸が締めつけられた。


「……ねえ、ルカ」


「なんだ」


「この時間が…」


言葉を探す。


「ずっと続けばいいのに」


ルカリウスは何も言わない。ただ、ローゼリアの手を取る。強く。逃がさないように。


「続ける。──俺が選ぶ」


短い言葉。けれどそれは、騎士の誓いみたいだった。


舟はゆっくりと水路を進む。赤い花びらが道を作りながら流れていく。


この穏やかな時間が、どれほど儚いものなのかを──まだ誰も知らない。


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