第57話 恋人の距離
温かな日差しが、どこか場違いに差し込んでいた。
冷たい季節は去り、やわらかな風が水路沿いの花を揺らしている。王都のこの季節には、深紅のラーレが一斉に咲き始める。石造りの運河の両岸を埋めるように咲く花は、風が吹くたびに揺れ、ときおり花びらを水面へ落とす。ゆっくりと流れていく赤。まるで水路そのものが、静かな色を運んでいるみたいだった。
「こんな温かい日は、船上から花を眺めたいわ」
ローゼリアが侍女に呟いた瞬間、王宮はすぐに動き出していた。
白い船体に金の装飾。舳先には薔薇の紋章。日差しを受けて、細工された金がやわらかく光っている。花見のためだけに用意された船とは思えないほど、それは優雅で、そしてどこか静かだった。
ローゼリアが乗り込むと、船はゆっくりと水路を進み始める。護衛の船は距離を取って後ろに控え、この時間だけ、王女の世界が少し広がったみたいだった。
「……贅沢だな」
低い声が、背後から落ちる。振り返らなくても分かる。
「ルカ」
銀髪が光を受けて淡く輝く。あの夜から、二人の距離はもう戻らない。
ルカリウスは船の縁に軽く手を置き、周囲を一度だけ確認してから空を見上げた。
「王族の花見はこういうものよ」
ローゼリアはくすりと笑う。
「嫌い?」
「嫌いではない」
短い答え。それから少し間を置いて、付け足す。
「お前が楽しそうなら、問題ない」
ローゼリアは、少しだけ目を細めた。
風が吹く。花びらが一斉に舞い、いくつかが船の上に落ちる。深紅の一枚を拾い、ローゼリアは指先で回した。
「綺麗ね」
水面には、流れていく花びらが赤い道を作っている。
「……血みたいだ」
ルカリウスが低く呟く。
血──あの未来にはもう進まない。ローゼリアは呼吸を整えた。
「吸血族らしい表現ね」
「支配の色だ」
──赤は王族の色。
その言い方が少しだけ遠く感じて、ローゼリアは顔を上げる。距離は近い。豪奢な船の上なのに、この空間だけが妙に静かだった。
「ねえ、ルカ」
「なんだ」
「今日は」
少し言葉を探す。
「……恋人でいて」
風が止まる。ルカリウスの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
そしてルカリウスは、静かにローゼリアの手を取る。力強く、温かい。
「それは」
低く、短く言う。
「いつもだろ」
その瞬間、花びらが二人の間に落ちた。
赤が揺れる。その色は、まだ運命を知らない花の色だった。──けれど、血はもう知っている。




