第56話 静かな固定
夜は深い。
石造りの部屋は冷えているのに、寝台の上だけが呼吸をしているように温かかった。月明かりは届かない。小さな灯りが揺れ、影が二人をひとつの輪郭に溶かしていく。
触れる指先が互いの形を覚え直すたび、呼吸がゆっくりと揃っていく。奪う夜ではない。選び続ける夜だ。
ローゼリアが先に動いた。ルカリウスの胸元へ、そっと額を預ける。鼓動が耳に触れる。規則正しく、深く、強い。それだけで、体の奥に張りついていた緊張が溶けた。
「……今夜も?」
砂糖菓子みたいに甘い囁き。ルカリウスは言葉を返さない。代わりに、額を重ねる。視線が絡む。紫の奥に、眠る赤。まだ沈んでいる。牙は出ない。衝動も暴れない。
それでもローゼリアの血は、確実に甘い。今夜は特に。熟したワインみたいな深い甘さ。黒い果実の濃い香り。
王族の血だから──そう思う。それだけであってほしかった。
「噛まないの……?」
ローゼリアが、ためらいなく首筋を差し出す。命令でも懇願でもない。恋人の当然の仕草。選ばれることを疑わない、無垢な信頼。その無防備さが、いちばん危うい。
ルカリウスは一瞬だけ目を閉じた。喉の奥で、何かが疼く。噛めば、もっと深く刻める。
もっと確実に、縫い留められる。ローゼリアの血を、自分の奥に。その未来の甘さを、知っている。
それでも唇だけで触れる。浅く、柔らかく、熱を移すように。そして、ほんのわずかに皮膚を裂く。少量。血は溢れない。暴れない。ただ、深く混ざる。
ダマスクローズがゆっくりと開き、ベチバーが深く沈む。甘い。甘すぎる。
その瞬間、遠く研究塔で星読みの盤がかすかに震えた。円環。前より濃く、線が太い。閉じきらないまま、しかし確実に強度を増している。
「あったかい……」
ローゼリアの呼吸が深くなる。その言葉と同時に鼓動がほんのわずかに軽くなり、代わりにルカリウスの胸の奥へ重みが沈む。見えない重力。左目の奥で赤が瞬き、消える。暴れない。奪わない。壊さない。だが、確実に受け取っている。
ローゼリアは知らない。王族性が微量ずつルカリウスへ移ろっていることを。
ルカリウスも知らない。その負荷の一部が、さらに別の血へ滲んでいることを。
二人は絡み合ったまま、眠りに落ちた。指が絡み、鼓動が重なり、体温が溶け合ったまま。
甘い。穏やか。満たされている。──だからこそ、怖い。
手首の薔薇は、まだ咲かない。けれど根は地下で互いを絡め取り、境界を越えて伸びている。血を分け合いながら。血を吸い上げながら。気づかれないまま。
血は、忘れない。式は、もう止まらない。
そしてその均衡は──誰かの選択ひとつで、簡単に裏返る。まだ誰も、その選択を知らない。




