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第55話 境界線を越える夜


声が、静かに落ちた。


──足りない。


その言葉が、胸ではなく腹に落ちる。重く。深く。


月は欠け、血は静かだ。暴走の気配はない。それでも。近い。ダマスクローズが濃い。わずかなバニラが、喉をくすぐる。甘い。


ローゼリアが自分から距離を詰めてくるとき、理性は削られる。これは脅しでも試練でもない。ただの事実だ。


「……足りない?」


問いではない。覚悟の確認だ。翡翠の瞳は揺れない。


その瞬間、決める。奪わない。傷つけない。でも──触れる。


頬を指先でなぞる。温かく柔らかい。ローゼリアが目を閉じる。それだけで、血が一段深く鳴った。


そっと唇が触れる。静かに浅く。けれどいつもより長い。


ローゼリアの呼吸が揺れるたび、胸の奥がわずかに軋む。


腕を回す。逃げない。むしろ、抱き返してくる。


愛は、まだ刃ではない。──けれど、いずれ刃になる。


「後悔するな」


低く告げる。脅しではない。最後の自制だ。


ローゼリアは、首を振る。


その仕草が、最後の境界を溶かした。


今夜は、守るために距離を取らない。今夜は──選ぶ。



◇◇◇



石造りの部屋に、月が静かに落ちていた。


武具の影が壁に揺れ、冷たい窓光が床をなぞっている。燭台はない。月明かりだけが、二人の輪郭を銀色に縁取った。


ローゼリアの指が、ルカリウスの背をゆっくりとなぞる。


ルカリウスの掌が、ローゼリアの輪郭を確かめるようになぞっていく。宝物に触れるように優しい手つきで。


衣擦れの音が、夜に溶ける。吐息が混ざる。体温が、静かに絡んでいく。


少しも離れたくなくて、無意識に指先に力が入る。ルカリウスの首筋へ、縋るように腕を回した。


深く沈んだ瞬間、境界が揺らぐ。


呼吸が、同時に乱れた。


ホワイトムスクが弾け、バニラの甘さの奥でアンバーがゆっくり溶けていく。


ルカリウスの喉の奥に、甘く鋭い熱が走る。


噛めば、もっと深く繋がる。血は甘い。


それでも、噛まない。牙は出ない。血は流れない。


代わりに。指が絡む。鼓動が重なる。もう、どこまでが自分かわからない。


暴走ではない。侵食でもない。これは、選択だ。


石壁の向こうで、世界は静かだった。


夜は、まだ続く。──戻れないまま。



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