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第54話 触れてはいけない温度


夜の研究塔は、音を持たない。


石壁が冷えた空気を閉じ込め、燭台の炎だけが静かに揺れている。星読みの盤の光が、その揺れに合わせるように、ゆっくりと呼吸していた。


「手を」


セラフィオンの声はいつも通りだ。冷静で、均衡を保った音。ローゼリアは素直に手を差し出す。


触れた瞬間。


脈ではない。血が、先に反応した。


セラフィオンの袖口から、青く澄んだジュニパーの香りが立つ。そこに一瞬だけ、刃のようなベルガモットの光が走った。盤が強く脈打つ。空気がわずかに震える。


中心にローゼリア。左にルカリウス。そして右。まだ完全ではない第三の波形が、薄く重なる。一瞬。円環が描かれる。完璧に近い、静かな輪。


セラフィオンの呼吸が止まる。


暴走ではない。侵食でもない。ただ──均衡。


成立すれば、すべてが整うはずだった。


そのとき。ローゼリアの鼓動が、ひとつ遅れた。


「……落ち着く」


血が熱を帯びる。甘い。ルカリウスに触れたときとは違う甘さ。もっと冷たいのに、深い。沈むような温度。


ローゼリアの指が、無意識にセラフィオンの袖を掴む。理由はわからない。ただ、その冷たい体温と白茶のように静かな香りから手を離すと、均衡まで途切れてしまいそうだった。


夜気のようなわずかなオゾンが、二人のあいだで微かに揺れる。


円環が、もう一段強く脈打つ。


セラフィオンの理性が、削れる。


唇が近い。距離が消えかける。ジュニパーの青さの奥で、乾いたシダーが沈む。思考を澄ませるはずの匂いが、先に理性を崩す。


三点式が成立すれば、ローゼリアの減少は止まる。ルカリウスの負荷も軽くなる。完璧だ。なのに。


「……違う」


低く、掠れた声。


奪うのではない。救うためだ。そう思った瞬間に気づく。自分は今、奪おうとした。


「フィオ?」


腕の中に収まったローゼリアは、逃げない。翡翠の瞳が、まっすぐにこちらを見る。そこに恐怖はない。ただ、かすかな戸惑いと──懐かしい何か。


血が、もう一度強く鳴る。盤が暴れる寸前まで跳ねる。


あと半歩。あと一息。触れれば、円は閉じる。


けれど、セラフィオンはゆっくりと距離を戻した。


空気が冷える。円環は未完成のまま消える。共鳴は沈み、観測室は静寂を取り戻す。


「……今日はここまでです」


声は平坦。完璧な理性。だが指先は、わずかに震えていた。


ローゼリアの血は、確かに自分の血へ触れた。


そして──もう、外側には戻れなかった。


月は雲の奥に隠れかけている。


だが血は、覚えている。触れれば、完成することを。そして──次は、止まらないかもしれないことを。



◇◇◇



石壁はひんやりしているのに、胸の奥だけが燃えている。


ルカリウスの部屋は静かだった。月明かりが床に細い帯を引き、石と影を銀色に分けている。燭台の火は落としてある。それでも、窓から差し込む光だけで、部屋の輪郭は見えた。


ここへ来る理由なんて、本当はない。それでも。


「……少しだけ、一緒にいて」


声に出した瞬間、喉の奥に甘い熱が残った。


ルカリウスは何も聞かない。理由も、覚悟も、問いたださない。ただ、扉を閉める。


その小さな音が、背中を震わせた。


近い。まだ触れていないのに、空気が肌にまとわりつくほど近い。ベチバーが静かに沈む。冷たいはずの香りが、今夜は少しだけ溶けていた。


視線が合う。紫の瞳は穏やかだ。あの夜の赤は、もう沈んでいる。


「寒くないか」


低い声。肩に触れられた瞬間、体温がそこから広がる。


触れられたい。壊れることより、触れられないままの方が、もう怖かった。


指先を伸ばす。布越しに伝わる胸の熱。規則正しい鼓動。


「ルカ」


名を呼ぶだけで、息が甘くなる。ルカリウスは黙っている。


一歩、近づく。ダマスクローズが、体からほどけるのが分かる。


「……足りないの」


血じゃない。契約でもない。抱きしめられたときに消える不安、その続きが欲しい。


──今夜は、逃げない。


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