第50話 甘い均衡
満月から十日。城は平穏を取り戻したかのように静かだった。
庭園の奥、白薔薇のアーチの下。やわらかな光が石畳を照らし、白い石壁に蔓の影が落ちている。アーチの内側だけは、ほんのわずか空気が柔らかかった。
薄紅のドレスが、白薔薇の間で静かに揺れる。ローゼリアは石造りのベンチに腰掛け、ルカリウスを見上げた。
「ルカ、最近調子はどう?」
「問題ない」
即答。けれどその声は、以前より柔らかい。左目の赤は、今は沈んでいる。満月の夜の暴走が嘘のようだ。
「お前は?」
問い返され、ローゼリアは少しだけ笑う。
「軽いの」
「……軽い?」
「身体が。悪い意味じゃなくて」
本当だ。呼吸が楽だ。血の波が、以前より静かに流れている。それが何を意味するのかを、ローゼリアはまだ知らない。
ルカリウスがゆっくりとローゼリアの顎に触れた。
「匂いが変わった」
低い声。ローゼリアは目を瞬く。
「甘い」
欲望ではない。観察でもない。“知っている匂い”を確かめる声だった。
ローゼリアは小さく息を吐き、囁く。
「……欲しい?」
ルカリウスの瞳が、わずかに揺れる。
「いいのか」
「恋人でしょ?」
その一言で、空気が静かに変わった。
ルカリウスはゆっくりと首筋に口づける。牙は出ない。ただ、唇の熱と呼吸が重なる。それから──ほんのわずかに、皮膚が裂ける。
痛みはない。熱が、流れ込む。
ベチバーが甘く溶ける。ダマスクローズが柔らかく開く。暴走は起きない。月はない。光も歪まない。ただ、血が静かに溶ける。
◇◇◇
その瞬間。研究塔の最上階で、星読みの盤が微かに光った。
円環。小さな、完璧に近い円。
一瞬だけ現れ、少しだけ濃くなってから沈む。
セラフィオンの指が止まる。
「……固定が、進んでいる」
声は小さい。儀式ではない。暴走でもない。
恋人の微吸血。それでも確実に、三点構造が完成に近づいている。
式は動いている。気づかれずに。壊れずに。甘く。
「……理論は、正しかった」
だが、胸の奥が静かに熱を持つ。成功の安堵か。
それとも──ローゼリアの血が、自分にも触れかけているのか。
◇◇◇
庭園では、ルカリウスがゆっくりと離れた。
血はわずか。左目の奥で赤が一瞬だけ灯り、すぐに消える。暴走しない。侵食しない。代わりに──安定する。
ローゼリアの呼吸が、深くなる。
「あったかい」
それだけを言う。何かが移ろっていることも、何かが別の場所へ流れていることも、ローゼリアはまだ知らない。
ルカリウスの前髪がローゼリアの額に触れた。
「もう一度」
低い声。けれど、柔らかい。
ローゼリアは笑う。
「ふふ。少しだけね」
血が、再び混ざる。円環が、もう少し濃くなる。
契約は失敗していない。ただ──儀式では成立しなかっただけだ。
血は、忘れない。
式は、もう始まっている。




