第49話 観測誤差
その同じ夜。研究塔の最上階では──
星読みの盤が、静かに脈打っていた。夜の心臓みたいに。その律動だけは、嘘をつかない。
セラフィオンは無言で数値を追った。王族性波形。基底値。崩壊速度。共鳴残滓。紙の上の線は冷たい。なのに、喉の奥だけが渇く。
「……安定している」
暴走は起きていない。薔薇紋も再発現していない。共鳴値も急上昇していない。理論上、回復傾向だ。
指先が止まった。
「減少……?」
基底王族性の総量が、わずかに落ちている。ほんのわずか。誤差と言い切れるほどの薄さ。けれど前回観測時と比較して、明確に“軽く”なっている。
「崩壊ではない」
波形は滑らかだ。裂けていない。乱れていない。むしろ、美しい。美しすぎる線ほど、何かを隠す。
王族性が、外へ流出している可能性。肩代わり。媒介。触媒。あの夜の仮説が、ゆっくりと形を取る。
ルカリウス。非純血の可能性。共鳴値増幅。
「……移動している」
机の上の記録を引き寄せる。満月暴走時の残滓。一瞬だけ現れた安定円環。二秒の時間遅延。あの瞬間、契約は失敗した──はずだった。
もし噛みつきの一瞬で、血の式が内部で開始していたとしたら。表面は失敗。内側は進行。
セラフィオンは、ゆっくりと目を閉じた。
噛む行為。少量吸血。毎回、微量の王族性が再配分されているなら──ローゼリアの減少は崩壊ではなく、移動だ。
「……取り返しがつかない」
減っている。なのに壊れていない。それはつまり、どこかで受け止めている。その器になりうるのは、左目に赤を残すあの男しかいない。
胸の奥が、わずかに軋んだ。痛みではない。観測者の内部に生じる、遅れの摩擦だ。
理論では、救済も侵食も成立する。感情は──どちらにも決めきれない。
セラフィオンは立ち上がった。
観測室の高窓は、王女の私室のバルコニーを斜めに捉えている。その下に整えられた庭園。霜の残る薔薇の植え込み。石畳の向こうに、淡い灯りが揺れていた。
ローゼリアの部屋だ。
硝子越しに、内部の光が滲んでいる。輪郭だけが見える。はっきりとは見えない。それでも、分かる。
ローゼリアが、笑っている。
天蓋の向こうで、銀髪がわずかに揺れる。ルカリウスの腕が、ローゼリアを包んでいた。暴走はない。牙も出ていない。ただ、甘い。
その光景は、遠いのに近い。硝子一枚ぶんの距離。
セラフィオンの喉が、ひとつ鳴る。
止めたのは、死だ。──止められなかったのは、選択だ。二人の間で、何かがゆっくりと移動している。“軽くなる”ように見えて、どこかで確実に重くなっている。
観測室の空気は冷たい。なのに、胸の奥だけが熱を持つ。
(まだ、間に合うはずだ)
「……理性の仮説は、血の証明に負ける」
──それでも、認める気はなかった。
硝子の向こうで、ローゼリアがルカリウスに寄りかかる。甘い距離。
セラフィオンは、硝子越しにそれを見下ろした。上から。届かない場所から。
硝子は割れない。理性も、まだ割れていない。
それでも、選ばれた血だけは──もう止まらない。




