第48話 甘い血は、代償の匂いを隠す
満月から六日。城は静かだった。
風もなく、帳の揺れだけが音になる。廊下の足音も、遠くで消える。静かすぎて、甘さだけが残るような夜だった。
医務室ではなく、ローゼリアの部屋。豪奢な天蓋の下、淡い灯りが薔薇の香りに溶けている。
ルカリウスは窓辺に立っていた。距離はもう取っていない。けれど、まだ一線は越えていない。越えたら戻れないことを、ルカリウスは誰より知っている。
ローゼリアはソファに腰掛け、透明なグラスを手にしていた。赤い液体。人工血だ。
「それ、美味しいのか」
「美容に良さそうな味よ」
軽い口調。嘘ではない。でも本当でもない。グラスを傾ける。
普段なら、これで足りる。自分の血を誰かに与えることなど、考えたこともなかった。けれど今夜は、グラスを置くたびに物足りない気がする。
ローゼリアはグラスを置いた。そして、まっすぐルカリウスを見る。
けれど今夜、香りが違う。前より甘い。ほんの少し。熟れ始めた果実みたいな、静かな誘い。“来い”ではなく、“ここにいる”と呼ぶ匂いだ。ルカリウスの喉が反応する。渇きが、理性に先回りする。
「……欲しい?」
あの日と同じ言葉。でも違う。命令でも挑発でもない。恋人の確認だ。
ルカリウスの瞳が揺れる。赤は出ない。理性は保たれている。けれど熱はある。
「……欲しい」
即答ではない。選んで、言う。選ぶことで自分を縛る。縛らないと、血は勝手に走り出す。
ローゼリアは立ち上がった。近づく。今度はローゼリアから。ルカリウスの頬を両手で挟み、自分の首筋へ導く。鼓動が静かに速い。半拍、揃おうとしている。
「奪うんじゃなくて、分けるの」
その言葉に、ルカリウスの喉がゆっくり上下する。牙が覗く。でも衝動じゃない。ローゼリアの瞳を見たまま、低く言う。
「……その顔で許すな」
ローゼリアは逃げない。むしろ、首筋をわずかに預ける。
「許してるんじゃないわ。選んでるの」
ゆっくりと、牙が沈む。浅く。優しく。血が流れる。
熱がひと筋、皮膚の下を走った。痛みというより、甘い痺れに近い。
──甘い。前よりも。確実に。
ベチバーが柔らぐ。アンバーが溶ける。ダマスクローズが熟れる。香りが混ざって、“同じ匂い”に寄っていく。
暴走しない。銀盆もない。月光もない。それなのに、胸の奥で確かに何かが“噛み合う”。牙ではない。式だ。皮膚の下で、見えない円環が静かに回り始める。
薔薇の痣は浮かばない。でも手首の奥で、わずかに熱が沈む。沈む熱は、救いの顔をしている。
ルカリウスがゆっくりと離れた。血は少量。傷は浅い。呼吸は穏やかだ。穏やかすぎて、怖い。
「……甘い」
「ふふ」
ローゼリアの指先は、ほんの少しだけ冷たい。自分でも気づいている。けれど今は、言葉にしたくなかった。
楽になったぶんだけ、どこかで何かが減っている気がする。それが何かは、まだ分からない。
それでも今は、抱きしめられた温度の中で考えたくなかった。
「恋人って、こういうものなんでしょう?」
ルカリウスの目が、ほんの僅かに柔らぐ。
「吸血族はそうかもしれないな」
ローゼリアは少しだけ目を細め、ルカリウスの胸元に額を預けたまま静かに囁く。
「私は、あなたにあげたいの。……それでいいじゃない?」
悪戯ではない。命令でもない。選んで差し出す者の、ひどく静かな声だった。
「……リア」
低い声。甘い。危険じゃない甘さ。腕が回る。今度は強すぎない。壊さない力で。
天蓋の布が、かすかに揺れた。夜は静かだ。静かなほど、甘さは毒になる。
でもローゼリアの血は、ほんの少しずつ確実に“軽く”なっていく。その軽さの代償が、どこへ向かうのかを──まだ誰も知らない。
誰もまだ気づかない。その甘さが、遠い観測室の指先にまで──遅れて届こうとしていることを。




