第45話 奪わせない
夕暮れ。医務室の窓から差し込む光は、白ではなく柔らかな橙に変わっていた。色が変わるだけで、同じ部屋が“許された場所”みたいに見えるのが、少しだけ腹立たしかった。
ローゼリアは目を開けている。熱はない。意識もはっきりしている。けれど胸の奥だけが、じわりと熱を持っている。
向かいに立つルカリウスは、何も言わない。壁にもたれたまま、距離を保っている。近づかない。触れない。あの夜の衝動を、まだ覚えているから。
「……どうして離れているの?」
静かな問い。ルカリウスは視線を逸らさない。
「まだ、血が安定してない」
嘘ではない。──理由は、それだけじゃない。
「俺は、あの夜……」
言葉が詰まる。噛みたかった。欲しかった。理性より先に、ローゼリアを求めた。それが怖い。
ローゼリアはゆっくり起き上がる。足を床につける。そのまま、ルカリウスの前まで歩く。
ルカリウスが一瞬、息を止める。
「怖い?」
「……」
否定しない。それが答えだ。ローゼリアは小さく笑う。優しい笑いじゃない。覚悟の笑み。
「奪った……って思うのが、嫌?」
空気が変わる。ルカリウスの瞳が揺れる。赤は出ていない。でも深いところで熱を持つ。
「……俺は、守る側だ」
低い声。
「奪いたくない」
ローゼリアは一歩近づき、ルカリウスの手を取った。そのまま自分の胸元へ導く。鼓動の上へ。
「じゃあ、奪わせない」
囁く。
「私を欲しい?」
ルカリウスの呼吸が乱れる。
「……リア」
翡翠の瞳が、まっすぐ見上げる。一瞬、時間が止まったみたいに静かになる。“カチ”の音が聞こえそうなほど。
「血とか、契約とか……もう」
言いかけて、止まる。
それだけじゃない。けれど、その先を言葉にした瞬間、何かが決定的に変わってしまう気がした。
「……あなたが欲しいの。ルカ」
命令でも懇願でもない。選択だった。
ルカリウスの指が震える。触れているのは布越しなのに、鼓動が伝わる。
ルカリウスはゆっくりと、額をローゼリアに寄せた。噛まない。奪わない。ただ、触れる。
「……俺は、お前を失いたくない」
「ええ」
「だから、血も契約も関係なく」
息が混ざる距離。
「……ずっと俺の隣にいろ」
──告白だった。王族の契約ではない。護衛の誓いでもない。男の言葉。
ローゼリアは微笑む。
「もういるわ」
ローゼリアは、ルカリウスの耳たぶを甘く噛んだ。牙は出ていない。血も出ていない。
でもその瞬間。ふわりと、ダマスクローズがわずかに甘くなる。ベチバーが荒れない。香りが“抗わない”だけで、世界が許されたように錯覚する。
共鳴は起きない。暴走もしない。ただ、静かに血が落ち着く。
遠くで、星読みの盤が微かに揺れる。同調線が、もう一段階深く沈む。
誰も気づかない。けれど血は、覚えている。




