第46話 秒針は、修正を始めた
回廊の影。石壁が月光を薄く吸い込み、足音だけが夜に溶けていく。
エリオは柱にもたれたまま、懐中時計を開いた。
カチ。
秒針は正常に動いている。……よく見ると、目に見えないほどわずかに遅れていた。一秒に満たないズレ。普通なら気づかない。
でもエリオは知っている。時間が書き換わるとき、世界はまず“遅れる”。
「……あれ?」
小さく呟く。笑みは消えていない。ただ、目だけが冷たく光る。
満月の夜、エリオは二秒だけ時を戻した。その後、世界は静かに“戻る前とは違う未来”を選び始めた。
「なるほどね」
契約は失敗したはずだ。銀盆の水は爆ぜ、式は自らを拒絶した。それなのに──ローゼリアの血が、安定に向かっている。ルカリウスの赤が、暴れない。
これは時間干渉の副作用じゃない。血が、自力で選び直している。
「止めなくても、進むんだ」
(……最高に厄介だね)
次の満月でもう一度噛んだら。今度は暴走しない。固定する。自然に。式の方が、二人の身体を追い越す。その瞬間、未来は完全に書き換わる。
エリオは秒針を指で止める。一瞬だけ。世界が凍る。
石壁に滲んだ月光が固まる。遠くの風が止まる。医務室の奥、薄い光の中にふたつの影。ルカリウスがローゼリアの指に触れている。
あれは儀式じゃない。恋人の距離だ。
エリオは指を離す。世界が再び動き出す。月光が流れ、風が息を取り戻す。
「……いいよ」
小さく呟く。誰にも届かない声で。
「今度は止めない」
秒針が、正しく刻み始めた。──ただ、ほんのわずかに未来の温度を変えながら。
その甘さの正体を、まだ誰も数式では掴めていない。研究塔の奥で、ただひとりを除いては。




