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第44話  失敗したはずの式


医務室の窓から、朝の光が斜めに差し込む。満月はもう過ぎた。空は穏やかだ。何も起きなかった夜のように。


(……変)


ルカリウスはまだそこにいる。一歩も動いていない。番いの獣みたいに、出口を塞いで。


「まだ、戻らないの?」


軽い調子で言う。けれど視線は左目へ向く。赤は、隠しきれない。


ルカリウスは短く答える。


「様子を見る」


「私の?」


「……ああ」


嘘ではない。──それだけでもない。“自分の血”の様子も見ている。言わないだけで。


ローゼリアはゆっくりと足を下ろした。立つ。ふらつかない。血が軽い。削れた感覚が、ない。


軽さが怖い。軽いほど、どこかが帳尻を合わせている気がする。


「ねえ」


静かに言う。


「契約って、儀式が全部だと思ってた?」


ルカリウスが、わずかに眉を寄せる。


「違うのか?」


ローゼリアは自分の指先を見る。あの夜、裂いた場所。もう傷は閉じている。閉じているのに、覚えている。皮膚の奥が。


指先を軽く噛む。ほんの小さな傷。赤い雫が浮かぶ。


その瞬間。ルカリウスの呼吸が変わる。わずかに。ほんのわずかに。赤が深く灯る。暴れない。跳ねない。ただ、応答する。獣が起きるのではない。血が“はい”と返事をする。


(……やっぱり、応える)


「欲しい?」


声は静かだった。命令でも、許しでもなく。ルカリウスは動かない。視線が血から逸れない。


「……違う」


否定する声。けれど足が、一歩近づく。


「奪うつもりはない」


ローゼリアは微笑む。


「奪われるなんて思ってない」


その言葉で、空気が変わる。恐れではない。選択になる。“奪う、奪われる”の構図が、崩れる。


ローゼリアは、血の滲む指先を差し出した。首ではない。喉でもない。“儀式”ではない。ただ、分け合うもののように。


ルカリウスの瞳が揺れる。紫の奥に赤。今度は、殺意も暴走もない。


静かに牙が覗く。触れる。貫かない。ほんの浅く、血を舐める。


その瞬間。銀盆はない。盤もない。月も満ちていない。なのに。


ローゼリアの胸の奥で、とく、とく、とく。半拍ずれていた鼓動が、揃う。


薔薇の痣は浮かばない。代わりに、手首の内側に薄い温度が走る。火傷ではない。印でもない。──手を繋がれたような熱。


ルカリウスが顔を上げる。赤は濃くならない。むしろ、静かに紫へ溶けていく。赤が暴れるのではなく、居場所を見つけて落ち着く。


「……暴れない」


低い声。驚きが混じる。


ローゼリアは胸に手を当てる。軽い。あの重さが、ない。


「崩れない」


二人の視線が重なる。境界を残したまま、血が重なる。


ローゼリアは、小さく笑う。


「失敗だった?」


ルカリウスは答えない。代わりに、左目の奥で赤が一瞬、金を帯びる。すぐに消える。けれど確かに、あった。


誰も見ていない。血だけが見ている。


あの満月の夜。噛みかけた瞬間。刻まれた、見えない式。爆発しなかった。だから失敗に見えただけ。今は静かに、内側で始まっている。


──血は、忘れない。


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