第43話 目覚めは静かすぎる
「……事故死……?」
婚約者の死が告げられたのは、ルシエルの喪が明けてすぐのことだった。
朝はまだ白く濁っていて、窓の外から湿った土の匂いが流れ込んでいた。知らせを持ってきたのが誰だったか、今はもう思い出せない。
実際に会ったことはない。絵師が描いた肖像で見ただけだった。黒髪に青い瞳。品格が滲む、完璧すぎる婚約者像。生きていれば、どんな声をしていたのだろう。
「……私に関わる者は、死ぬ運命なのかしら」
王女は泣くな、と教育されてきた。
王家で双子が揃って育つことは、ほとんどない。王族性は必ずどちらかへ偏る。欠けた側は長く生きられない。それは生まれる前から変わらぬ事実。
誰もが言った。ルシエルの死は、仕方のないことだったと。
それでも──私がいなければルシエルは死ななかった。
私がルシエルを殺した。王族性が強すぎた私が、弟の全てを奪ってしまった。
「……あなたのせいじゃないわ」
母の声は優しかった。悲しい目をしたまま。白い手が、ローゼリアの頭をそっと撫でた。温かかった。その温かさが、余計に苦しかった。
それから母は、ほとんど部屋から出なくなった。
廊下を歩くたびに、ルシエルの部屋の前を通った。扉はいつも閉じていた。中から音がしたことは、一度もなかった。
私には王となる未来しかない。選ばなかった。選べなかった。決められたレールの上を歩くだけ。十歳で、選ぶという未来は消えた。
新しい婚約者の肖像が届いたのは、それから半年が過ぎた頃。その頃には、窓の外の光はもう乾いていた。ルシエルの部屋の扉は、まだ閉じたままだった。
自ら選ぶという選択をしたのは、それから七年後に一度きり。護衛騎士だけは、自ら指名した。
──それだけは、なぜか譲りたくなかった。選べない人生の中で、ただ一度だけ、自分で手を伸ばしたかった。
そして今、白い朝の中で、ローゼリアはもう一度目を開ける。
◇◇◇
白い天井。薬草の匂い。薄く差し込む朝の光は、痛みを洗い流すように冷たい。
ローゼリアは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。世界は崩れていない。痛みもない。──ただ、妙に静かだ。
(……生きてる)
指先を動かす。冷たくはない。血も引いていない。けれど胸の奥が、ひどく澄んでいる。澄みすぎて、怖い。水面のように静かで、底が見えない。
何かが、体の奥で“ここにいる”とだけ告げている。名も形もないのに、確かに触れたことのある温度で。
視線を横へ向ける。壁にもたれ、腕を組んだまま動かない影。
ルカリウス。眠っていない。目を閉じているだけだ。夜を丸ごと抱えたまま、動けなくなったみたいに。
「……ルカ」
声はかすれていない。呼ばれた瞬間、ルカリウスの瞼が開く。紫の瞳。左の奥に、赤が沈んでいる。消えきっていない。燃え残りではなく、隠していた火の芯。
ローゼリアは、瞬きをした。
「……止めたの?」
最初に出た言葉は、それだった。噛んだかどうか、じゃない。止まったかどうか。
ルカリウスの視線が、わずかに揺れる。ほんの一瞬だけ。揺れは答えの代わりに、喉の奥へ飲み込まれる。
「……ああ」
短い返事。嘘ではない。──全部でもない。
ローゼリアは、ゆっくりと上体を起こした。ふらつかない。血も騒がない。
その代わり。胸の奥で、鼓動がひとつ重なる。自分のものではない拍。半拍ずれて、寄り添うように鳴る。
「……おかしい」
小さく呟く。ルカリウスが眉を寄せる。
「どこがだ」
「崩れてない」
手首に触れる。薔薇の痣は出ていない。
「完全に切れてもいない」
空気が、薄く張る。ルカリウスの左目が、ほんのわずかに赤を深くする。理性ではない。反応。呼ばれたように。
ローゼリアは、その変化を見逃さなかった。ゆっくりと手を伸ばす。ルカリウスの頬に触れる。指先が左目の下に触れた瞬間、赤が静かに灯る。
暴れない。揺れない。ただ、そこに在る。灯りは光ではなく、合図だ。ルカリウスの呼吸が、ひとつ乱れる。
「……触るな」
拒絶ではない。恐れだ。触れたら壊れるのは、ローゼリアじゃなく、ルカリウスの方だと知っている声。
「怖い?」
問いは優しい。責めない。ただ確かめる。
ルカリウスはしばらく答えない。やがて、低く。
「……お前が壊れる方が怖い」
野心ではない。強さでもない。選択の言葉だった。守る、と同じ意味を、もっと近い距離で言い直しただけ。
ローゼリアの胸が、ゆっくりと熱を持つ。崩壊ではない。共鳴でもない。ただ、血が揃っていく。
遠くで、カチ、と鳴った気がした。秒針みたいな音。時間は戻っていない。けれど、修正が始まった音に似ている。
儀式は失敗した。契約は成立しなかった。それなのに、この距離は昨日までと違う。“失敗”のはずの夜が、まだ体温を持っている。
ローゼリアは、そっと呟く。
「ねえ、ルカ」
翡翠の瞳が、まっすぐにルカリウスを見上げる。
「これ……失敗だと思う?」
ルカリウスは答えない。答えられない。血がまだ、離れずに繋がっているからだ。儀式ではなく、選んだ血が。見えない場所で、言葉にならない形で。




