邪宗滅びて…… その一
社崎の駅に近い仙田運転手の家で簡単な手当てを受け、夫人の作ってくれた軽食を無理やり胃へ押し込むと、借りたパジャマに着替えた二人はそのまま、夫妻がのべた布団の上で糸の切れたマリオネットのように倒れこんでしまった。
そのまま、布団もかけずに昏々と眠り続けた二人が目を覚ましたのは、あたりがすっかり明るくなった九時ごろのことだった。仙田夫人が晩のうちに手入れをしてくれた服を着、心づくしの朝食へ箸をつけるうちに、二人の心のうちに、はたして昨夜の出来事は現実だったのか……という、冷めた感情が沸き上がりだした。
「真樹さん、ありゃあ本当に、本当にあったことなんでしょうか」
食後に出された番茶を飲みながら、坂東医師は絆創膏を貼った頬をなでつつ、額へ包帯を巻きつけられた真樹の顔を見やった。
「さあ、どうでしょう。――怖くて、テレビなんて見る気にはなれないですよ」
自分たちのことを気遣ってか、当たり障りのないことしか聞かず、テレビをつけようともしない仙田夫妻にやや遠慮しながら、真樹はじわじわと痛むあちこちをさすり、ため息をついた。
しばらくしてから、非番だという仙田運転手に宿まで送ってもらうと、二人は丁重に礼を述べ、昨夜と変わらぬ調子――少なくとも本人たちはそのつもりであった――で、日本海荘の玄関ロビーへ踏み込んだ。
その途端、二人は宿の中に漂う、ひどくせわしない空気に気づき、その場に立ち尽くした。鞄という鞄、荷物という荷物に貼り付けられた放送局、新聞社のロゴマークに、同じ模様入りの腕章をはめた一団が行き交うロビーは、昨日までの静かな田舎宿と同じ場所とは思えなかった。
「なにかあったのですか」
素知らぬ顔で部屋の鍵を受け取りながら、坂東医師がボーイに尋ねる。すると、ボーイは逆に、ご存じないんですか、と目を見開いて二人をのぞき込む。
「北の方へ行ったところにある、古いホテルの跡地で爆発があったんですよ。火の手があがるような場所じゃないはずだから、不審火か何かじゃないかってことなんですが……。Nのほうでも炎が見えたらしくて、朝早くからああして、取材しにやってきているんですよ」
「へ、へえ……」
そのまま黙って、二人分の鍵をポケットへ入れると、坂東医師は真樹を引っ張って、エレベーターへと飛び込んだ。
――やっぱり、昨日のことは夢ではなかったのだな……。
静かなエレベーターの中で、二人はそう言いたげな、どんよりと濁ったアイコンタクトを交わしたのち、いったん身支度を済ませてから最上階のラウンジへと集まることにした。
傷口に障らないよう、風呂場でそっと体を洗い、真新しい服へ袖を通した二人は、ちょうど初日に座ったのと同じ席へ腰を下ろし、冷たいジュースを二つ、注文した。
「――どうやら、昨日我々が見たのは、まごうことなき現実だったようですよ」
整髪料ににおいを漂わせながらキャメルをふかす坂東医師に、真樹は頬杖をつきながら、どうもそうらしいですね、と力なくつぶやく。
「シャツの下が痛くて、かゆくてたまらない。おまけに、鞄の中のカメラはあちこち砂埃がくっついて、ひどい有様でしたよ」
「時期を見て、オーバーホールに出した方がいいかもしれませんね」
傷だらけになった眼鏡のフレームをさすりながら、坂東医師はため息をつき、しきりに瞬きをしてみせる。そのうちに、お互いの傷だらけになった顔を見るのも嫌になってか、二人の視線はいつの間にか、ラウンジの下に広がる、日本海のさざ波へと移っていた。
昨夜の忌まわしい光景が焼き付いた網膜を洗うような波の具合に、二人はグラスの中身がぬるくなるのも忘れ、しばらく呆けたようにその先を見ていた。
昼へ近づき、ラウンジの中が今朝着いたらしい海外からのパック旅行の一団で騒がしくなりだしたのに気付くと、二人は飲みさしをそのままに、その場から離れた。そして、エレベーターの中でこの後の動きを申し合わせると、二人は互いの部屋へ飛び込み、広げていた荷物をすべてまとめてから、鍵をフロントへ返し、宿を発つ旨を窓口のボーイへと伝えた。何かご不満でも、と支配人まで出てきて少々二人は面食らったが、
「やむにやまれない事情があって、どうしても今日のうちに宿を出ないといけないのです。サービスそのものは百点満点でしたよ」
という、坂東医師の上品な笑みに相手も納得し、一度支払った残りの滞在費を受け取ると、二人はホテルのバスで社崎の駅へと向かい、一時間後に出る急行列車の切符を買ってから、今朝まで世話になっていた仙田夫妻の元へ挨拶をしに向かった。夫妻には、帰りのことも考えずに夜釣りに出かけたら、あの妙な爆発に巻き込まれてひどく驚いている。しばらくいようと思ったが、なんとなく決まりが悪いからこれで帰ろうと思う、と伝え、あくまでも自分たちはただの目撃者である、ということにして、老夫婦を安心させておいたのだった。
「――恩人に嘘をつくのは、どうにも決まりが悪いですねえ」
改札をくぐり、駅員が車内の清掃を済ませた車両へ乗り込むと、坂東医師はクロスシートに身を預けたまま、改札口の門から見える仙田運転手たちの同僚の車を横目に、気まずそうな顔を見せていた。
「仕方がないでしょう。あの夫婦を巻き込むには、昨日の出来事は大きすぎた……」
仙田夫人がもたせてくれた、握り飯と卵焼きをくるんだアルミホイルを持ったまま、真樹は冷めた様子で、頬杖をついて同じ光景を眺めている。
「戻ったらどうします。休業はお互い、解除とゆきますか」
身をよじらせて体を伸ばす真樹に、坂東医師は首を動かし、
「……正直なところ、僕はしばらく本業に向き合う気にはなれそうにありません。でも、だからといって、このままこの地にいる気にもなれない」
「笹ヶ平の温泉なら、海は見えませんよ。こっちよりは近いし、案外安い……。僕はしばらく、そっちへ引っ込もうと思いますが、先生はどうなさいます」
むずがゆそうに顔を動かすと、坂東医師はしばらく唇を一文字に結んでいたが、やがて、
「真樹さんがいるなら、多少は傷も癒えそうだ。――傘岡についたら、支度をし直しましょう。今度は荷物を少なめにして、釣りにでも出かけましょう」
「……それがいい。ヤマメでもアユでもなんでもいい、磯の香りがしないなら、僕はなんでも構いません」
ホーム上に据えられた年代物のベルが、発車時刻を告げてびりびりと鳴り出した。駅員の振った青い旗を合図に、がくりと足元から振動が伝わると、二人を乗せた急行列車は、少しずつ速度を増して、社崎の駅を離れていった。二人はしばらく、シートに身を預けて、錆のまわった扇風機の首を振るさまをじっと見つめていたが、張り詰めていた緊張がほぐれたのか、足元からの振動と、最前までの暖かな日差しを帯びた座席の熱に、瞼をゆっくりと下げ、そのまま深い眠りへといざなわれてゆくのだった。




