07.そこまで俺との婚約がいやなのか
フッと月明かりが遮られた。
「やりすぎなんだよ」
小さく低い声が降ってきた。エディスは重い瞼をなんとか持ち上げる。
シリルだった。呆れた顔で見下ろしている。
「……何よ、見ていたの?」
気づかなかった。
「エディスの魔力の気配、すごかったからな。嫌でも気がつくだろ。どうせこんなことだろうと思った」
問う間もなく、シリルが傍らに膝をつき、エディスの体の下に手を入れる。何するのよえっち。それに汚れちゃうわよ。何しろぬかるみに倒れ込んで泥だらけだ。
そのまま横抱きに抱き上げられ、まったく危なげもなくシリルが歩き出す。
「重たくないの」
聞いてみた。
「重たいな」
デリカシーのない男である。
十二歳の時には変わらない背丈だったのに、あれから五年たった十七歳現在は、頭ひとつ以上、シリルが大きい。
肩幅も、腕の太さも、手の大きさも、何もかも、大きい。
「だったらそこらへんに投げて帰りなさいよ。歩けるようになったら自分で歩いて帰るから」
「君は俺が、婚約者が倒れているのに気が付いていながら無視するような男に見えるのか」
「ああ、自分のため」
「……」
「……ねえ、私がもし勝ったらルクレツィア様と婚約するの?」
「もし、ルクレツィアが望むのなら、俺は断れない。相手は公爵家だからな」
そう答えて、
「そこまで俺との婚約がいやなのか」
ぽつり、とシリルが聞いてきた。
「……いやかも」
シリルは父親であるシュトラール侯爵の意向に従っているだけの可能性が高い。
自分から婚約解消を言い出せないのだ。
ほかに好きな人がいても。
それにこっちも、別に好かれていない人に義務で優しくされたり、婚約者面されるのはつらい。
「……そうか。それは、悪かったな」
静かな声に、あ、傷つけちゃったかも、とちょっと思った。でもどうして傷つくの。まあ確かに彼は彼なりにちょっとはエディスを婚約者として扱おう、と努力はしてくれていたから、その心遣いを否定されたらさすがにね……。
だが、月に背を向けているせいで、シリルがどんな表情をしているのかわからない。
わからないから、エディスはこの程度の悪態でシリルが傷つくわけないか、と思うことにした。
***
翌朝。エディスは体を起こそうとして、まだ腕に鉛のような重さが残っていることに気づき、思わずうめき声を上げた。魔力切れの後はいつもこうだが、今回はいつもより輪をかけてひどい。
しかし学校に行かなくては。
ベッドから這い出ると、制服に着替えている途中だったコーディが気付いて振り返る。
「大丈夫? 顔、白いよ。今日くらい休んでも」
「そういうわけには」
「シリル様も無茶するな、って言ってたし」
「……シリル?」
どうしてあいつの名前が、と思ったところで、エディスは昨日の記憶がシリルに抱き上げられたところで消えていることに気が付いた。
「待って、私、昨日どうやってここに戻ってきたの?」
「シリル様が運んできたのよ。一人で練習場で使い魔を使って魔力切れを起こして倒れていたって」
「シリルが!?」
「そう。そこからは、寮監の先生がここに運んできて、制服を脱がしてベッドに寝かせたのよ。あなたの制服、泥だらけだったもの。そのままベッドに寝かせるわけにはいかなかったから。一応、体についた泥は拭いたよ?」
コーディに言われ、エディスは自分がいつものパジャマではなくシュミーズ姿でいることにようやく気が付いた。
「そうなんだ。ありがとう」
言ったそばからふらついたので、あわててコーディがエディスを支えに来る。
「無理しちゃだめよ。あたしから先生に言っとく。本当に顔色ひどいよ? ゆっくりシャワーを浴びて、スープを食べてから学校に来てもいいと思う。その、制服も泥だらけだしね」
コーディの視線が示す先に目をやると、エディスの制服がハンガーにかかっていた。
見事に泥だらけである。
――洗濯してからじゃないと学校に行けないのね。
なので、コーディに午前中は休むと学校側に伝言してもらうことにし、エディスは部屋着に着替えると制服を持って洗濯室に向かった。
貴族だろうが平民だろうが自分のことは自分でするのが、魔法学校のルールだ。
洗濯室で魔法で動く洗濯から乾燥までこなす装置に制服を突っ込んだあと、エディスは共同のシャワールームに向かった。熱いシャワーを浴びて血の巡りがよくなると、なんだか少し体のだるさが抜けた気がする。再び洗濯室に戻って制服を回収し、自室で着替えたあと、のんびりと食堂に向かう。
朝食の時間を過ぎていることもあり、残っているものはパンとスープくらいしかない。
自宅でやると怒られる「パンをスープに浸してふやかす」食べ方を楽しんだあと、エディスは学校へと向かった。
***
女子寮を出て、いつものルートを歩く。
石畳を踏む足が、まだ少しふらつく。不甲斐ない。
「エディス」
声をかけられて顔を上げると、人気のない渡り廊下の柱にもたれるようにして、シリルが立っていた。
「……何してるの、あなた。授業中でしょ」
「体は平気なのか」
エディスの質問には答えず、シリルがゆっくりと寄ってくる。
「見ての通りよ。心配しなくていいわ」
つんとそっぽを向いて答える。シリルに助けられたのだから感謝の言葉を口にするべきなのに、何をしているのだろうか、自分は。
だが、シリルには見られたくなかった。一人で対策をしていたことも、魔力切れを起こして倒れたことも。……泥だらけになっていたし……。
――あれだけ制服が汚れていたんだから、私を抱き上げたこの人もけっこう汚れたのでは?
そのことに気付いて、ぐるんと顔を戻す。
シリルがぎょっとした顔をする。
シリルの制服は汚れていなかった。
――まあ、それもそうか。制服が一着だけ、ということはないだろうし。
エディスも別に一着だけではないが、その予備がクローゼットの奥の方にあるので、予備を探すくらいなら汚れている制服を洗ったほうが早い、と思っただけである。
「昨日の勝負だが」
シリルが唐突に切り出す。
「何よ、勝負を下りる気!?」
エディスは食い気味に言い返した。
「いや、下りない。魔法使いに二言はない。君はどうだ? 俺が勝ったら、エディスは俺の言うことをなんでも聞くわけだな?」
「きっ……聞くわよ、なんでも」
しつこく確認されたら、そう答えざるを得ない。こっちから吹っ掛けた喧嘩である。
「なんでも?」
「くどい! 魔法使いに二言はないわよ! ああああああなたが望むのなら裸踊りでもなんでも! でででででもシュトラール家の品位を疑われるようなことはしないでよね!」
十八禁な要求をされる可能性に思い至り、エディスは真っ赤になってどもりながら付け加えた。お互い十七歳だからそんなことにはならないと思いたいけど!
「効果的な予防線の張り方だな。いいだろう、シュトラール家の品位を損なわない要求にしよう。楽しみだな」
フッとシリルが笑う。
「何、勝つ気になっているのよ。私は負けないんだから!」
「楽しみにしている。勝負が成立しなければ勝者の権利が手に入らないからな。だが当日、魔力切れでぶっ倒れて俺が不戦勝になるような展開だけはやめろよ」
「そんなことしないわよ!」
「昨日倒れただろうが」
「昨日は、ちょっとやりすぎただけよ。もう力加減わかったから大丈夫です!」
言うだけ言うとエディスはシリルに背を向け、そのまま去りかけ、
「……昨日はありがとう。おかげで獣にかじられずに済んだわ」
背を向けたまま、シリルに礼を述べた。
そしてそのまま足早にそこから立ち去る。
シリルがどんな顔をしていたのかわからない。
礼は人付き合いの基本だ。
エディスだって、お世話になった人にお礼を言うくらいはできる。
自分でも、どうしてシリルにだけこんなに意固地になっているのかわからない。




